「学級崩壊」とは?「荒れ」の質が変化している…

文部省(当時)が、「学級崩壊」に注目したのは1997年のことです。文部省が研究を委嘱した「学級経営研究会」は99年に最終報告を提出し、その中で、いわゆる「学級崩壊」を「学級がうまく機能しない状況」と定義しました。

「子どもたちが教室内で勝手な行動をして教師の指導に従わず、授業が成立しないなど、集団教育という学校の機能が成立しない学級の状態が一定期間継続し、学級担任による通常の手法では問題解決ができない状態に立ち至っている場合」を指しているとしました。

山田 洋一(やまだ・よういち)
北海道公立小学校教諭、公認心理師
1969年北海道札幌市生まれ。北海道教育大学旭川校卒業。北海道教育大学教職大学院修了(教職修士)。2年間私立幼稚園に勤務した後、公立小学校の教員になる。自ら教育研修サークル北の教育文化フェスティバルを主宰し、柔軟な発想と、多彩な企画力による活発な活動が注目を集めている。日本学級経営学会理事。著書に『子どもの笑顔を取り戻す!「むずかしい学級」ビルドアップガイド 』『子どもの笑顔を取り戻す! 「むずかしい学級」リカバリーガイド』(いずれも明治図書)などがある
(写真:山田氏提供)

こう定義がされてから、すでに20年以上が経ちました。はたして「学級崩壊」の状況や質は、当時と比べて変化したのかどうかをここでは明らかにしたいと思います。

私たちが「子どもの荒れ」と聞いて、真っ先に思い浮かべる状況は、教師の指導に対して、強い言葉で反抗する、激しく物品を損壊するなどという状況でしょう。これは「荒れ」という言葉が、70年代後半から80年代前半までに学校を取り巻いた「校内暴力」と、結び付くからでしょう。

もちろん、地域や学校によっては、こうした「激しい荒れ」が起きているところも、まったくないわけではありません。しかし、統計的に「激しい荒れ」は減ってきているという報告がなされています。

現場の教員としても、「激しい荒れ」は、減っているという印象を持っています。複数の中学校教員の話を聞いても、物が壊れるとか、教員に対して暴言・暴力で向かってくる状況は、少なくなっているといいます。

一方で、子どもたちの「荒れ」の質が変化してきたという声もあります。白梅学園大学の増田修治先生は、今の教室に「静かな荒れ」という状況が見られるようになったと指摘しています。増田先生によれば※1、「静かな荒れ」は、「『よい子』を振る舞う子が増え」、とくに高学年で、そうした子どもが「教師がいくら質問したり、答えるように促しても、一切無視をする……(中略)……表面的に荒れているわけではないが、子どもの心の中には、学校教育や教師そのものへの不満が渦巻いている状況」と説明されています。

「激しい荒れ」から、「静かな荒れ」へというのが、平成から令和にかけての「学級崩壊」の質の変化の1つといえると思います。

※1 増田修治・井上恵子(2020)著『「学級がうまく機能しない状況」(いわゆる「学級崩壊」)の 実態調査と克服すべき課題 ―1998年度と2019年度の学級状況調査を比較して―』(白梅学園大学教職教育・研究センター)

特別な支援を必要とする子と、学級崩壊の関係

先述の「学級経営研究会」の最終報告には、「『学級がうまく機能しない状況』の分析と対応策」として10ケースが挙げられています。ここでは、その10ケースの中から、とくに「特別な教育的配慮や支援を必要とする子どもがいる事例」を取り上げ、そうした子どもたちも含め、すべての子どもたちが学級で生き生きと生活できる方策を、考えてみようと思います。

同報告書では、その対応策を「教育的配慮が必要かどうかの的確な判断をすること、息の長い取り組みのための体制づくりをすること、一人ひとりの子どもの『違い』を生かす学級づくりをすること」としています。しかし、現在の教室では「『違い』を生かす学級づくりをする」ことが、とても困難であり、その理念が教員をかえって苦しめているように思えます。

1. 特別な支援を必要とする子の増加

学校におけるさまざまな学習活動や生活に困難を感じ、支援を必要とする子どもが多くなってきているという感触は、現場の教員なら誰もが持っているものです。

文部科学省は2022年、10年ぶりに「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」を行いました。それによると、小学校で「学習面又は行動面で 著しい困難を示す」子どもが10.4%、中学校で5.6%となっています。10年前と比べると、やや増加しています。しかし、そうした子どもたちへの対応に関する教員のコストは、数字以上に大きくなっている印象があります。

それは、教員の特別支援教育に関する研修が進み、私たち教員が、支援を必要とする子に注目しやすくなった。また、その適切な対応策も、ある程度知られるようになり、その子に合った支援をしているから、そのコストが大きく感じられるのかもしれません。

いずれにしても、通常学級で支援が必要な子どもの、教師の認知数は増加し、当然ながらその対応に苦慮している現場の教員も多いということがいえます。

2. 「多様化した子どもたち」と、学級崩壊の過程

特別な支援を必要とする子どもが教室にいるから、学級崩壊が起こりやすいとは言えませんし、そうした子がきっかけとなって必ず学級崩壊が起きるとも言えません。しかし、教室内に「いろいろな子」がいるという、全体として「多様化した子どもたち」への誤った対応が、学級運営を難しくし、「学級がうまく機能しない状況」に陥らせた例が多くあることは、現場の教員として認めるところです。

では、その「多様化した子どもたち」をきっかけとして、「学級がうまく機能しない状況」に陥る過程は、どのようなものでしょうか。これには、学級における「二重規範」の問題が深く関係しています。

これまでの学級運営では、学級における「単一規範」を教員は大切にしてきました。例えば、「鉛筆はB以上の濃さのものを5本」「消しゴムは1個」「授業中のノートの取り方は、決まりどおりに」「授業中はきちんと座って、先生の話を目を見て聞く」というような規範があり、それらには基本的に例外が認められませんでした。教室において「特例」はなかったのです。ところが、「多様化した子どもたち」のあり方を認めることは、「特例」を認めるということにほかならないわけです。

「Aさんは、立ち歩いて学習してもいい」「Bさんは、ノートの取り方が多少違っても、いい」(もちろん、そうできるような支援を教員はする)というようなことが起こるわけです。「多様化した子どもたち」に、単に個別に支援をしたり、配慮をしたりするだけなら、何の問題もありません。しかし、そこにはさらに「多様なほかの子どもたち」もいるのです。

ある子は、「先生、Aさんだけ立つのはおかしくないですか? 私たちは、立ったら叱られるのに」、またある子は「そうそう、不公平だよね?」と声を上げます。そして、Aさんの行動がどうしても許せず、パニックする原因になるような強い注意をする子も出てきます。

こうした多様な子どもたちの教師への「二重規範」批判が、学級を機能させないようにしていきます。やがて、教員の権威は失われて、教員の説明や指示が通らなくなる。そして、教室は騒然としていくのです。

3. 保護者も加担してしまう学級崩壊

前述のような「不公平なこと」があると、保護者たちも敏感に学級の状況や担任の対応に反応します。こうした保護者たちの動きをきっかけに、学級崩壊が深刻になった例を、ある教員から聞いたことがあります。

保護者たちのSNSを利用した情報交換の速さと量は、驚くばかりだそうです。前述のような「不公平なこと」があったことを、子どもたちが家庭で話します。すると「今日、学校でこんなことがあったんだって」と、夕食後に驚くべき速さで「拡散」するのだそうです。また、この機会に乗じて普段からの教員への不満を口にしたり、「拡散」したりもします。

それを、子どもたちが見聞きします。こうした保護者たちの言動によっても、子どもたちの担任に対する敬意は失われていくというのです。こうした経過を経て、残念なことですが、ある学校の担任は勤務できない状況になったそうです。

もちろん、保護者には学級を崩壊させようとする意図などはなかったでしょうし、担任を追い込む意図もなかったに違いありません。しかし、結果として崩壊を早めてしまったことに、間違いはないでしょう。現状の学級崩壊には、この事例のように保護者の言動が深く関係している場合が少なくありません。

4.「硬い規範」がある学級と「軟らかい規範」しかない学級

以前、学校は「みんなに同じ指導をしています」ということを第一の理念として、その権威を保っていました。全員に同じ指導をしたうえで、子どもにも、保護者にも、「平等に指導しているのですから、これで『できない』と言われましてもね」と、強弁していたわけです。

こうした状況では、「全員に同じことが提供されていない」ときに、「不平等」という批判を学校は受けます。一人ひとりにマッチした教育サービスが提供されているかどうかは大きな問題ではなく、全員に同じことが提供されていることが重要でした。

授業中に立っている子がいれば、教師は「座りなさい。みんなきちんと座って、授業を受けているじゃないか」と注意をしました。また、周囲の子どもたちも、その指導に納得をしていました。むしろ、教員が指導しないときには、「先生、あの子に注意してください。みんな座っているのに、あの子だけずるいじゃないですか」と不満を口にしました。

つまり、教室の中には、崩しがたい「硬い規範」が存在して、それを全員が守っている状態が、よい状態だと考えられていたわけです。ところが、こうした同質のサービスを全員にすることを条件として、同程度の学力や行動が求められる状況では、当然それに適応できない子が増えるということが起きてきます。少し前までの学級崩壊は、こうした背景が原因となっていました。

ところが、発達障害者支援法が制定された2004年あたりから、「一人ひとりの特性に合った指導をする」ということが、学校に強く求められるようになりました。

授業中に立っている子がいると、教師は、いきなりは注意せず「どうした?」と尋ねたり、「教育的な無視」といって、見て見ぬふりをしたりする場合などが出てきました。「無理に座らせるよりも、ほかの子に迷惑をかけない限り、ある程度自由なやり方で学ばせたほうが、この子にとってはいい」などの判断が、心の内にあるからです。

そして、周囲の子どもたちは、「Aさんが立ってもいいなら、私たちも立ってもいいですよね」と要望してきます。それに対して、教員はあからさまに「きみは、座ったままで学習できるだろう? あの子とは、違うんだから」とは言えません。個人の能力に関することを、ほかの子どもたちの前で言うことは、人権を尊重する観点から大きな問題があるからです。

また、仮にそれとなく、「立ってもいい人」と「立たなくても学習できる人」の規準を、その子に伝えたとしても、ほかの数十人の子どもたちにもそれらを伝え、説明することは現実には無理です。なおかつ、その規準自体が妥当なものかどうかは、本当にはわかりません。

つまり、「一人ひとりの特性に合った指導」が求められ、教員もまたそれを標榜しているのですが、「一人ひとりの特性に合った指導」の妥当性に対する疑義に、教員はいつもさらされているというわけです。この疑義は、とてもシンプルな言葉によって投げかけられます。「あの子に許されているのに、どうして私には許されないのですか」と。この問いに、教員は「いや、ダメというわけじゃないんだけど……」と、口ごもるしかありません。

子どもは「じゃあ、いいんですよね」と言って、授業中に立ち歩くようになります。教室は、無法地帯となり、子どもたちはどんどん「やすきに流れる」ようになります。規範は「軟らかく」、いつでもそれを破ることや、知らないうちにつくり変えられるというようなことが起きるようになります。

5. 両方とも危険度は高い

話を整理しましょう。以前のような「硬い規範」を全員に守らせることだけが強く求められる教室は、学級崩壊の危険度が高い教室といえます。そうした教室では、特別な支援を必要とする子やセンシティブな子どもたちが、不適応を起こしやすいです。息苦しい教室に耐えられなくなってしまうのです。また、教員の指導を強化しようとする「ミニ先生」が、担任の代わりに、適応できない子どもたちを注意する姿も、よく見られます。その先には、いじめの発生も予想されます。

一方で、「軟らかい規範」しかない学級では、子どもたちの生活や学習する意欲はどんどんと下がり続けます。「一人ひとりの特性に合った」指導を標榜しているのですが、その実は、「一人ひとりに好きなようにさせている」指導になってしまうことが多いからです。こうした学級もまた、学級崩壊の危険度が高い教室といえます。

学級崩壊の予防、改善するための3つのポイント

では、学級崩壊を予防、また改善するにはどうすればよいのでしょうか。ここでは3つのポイントを紹介します。

1つ目は、校長のリーダーシップの質を変えることです。学校づくりというと、校長の強力なリーダーシップによって、学校をひとまとまりにするというようなことが想起されます。そうした校長は、どの教員にも同じ手法を求めたがります。そうすることで、どの教室でも、どの教員であっても、同質の教育サービスを子どもたちに提供できると信じているからです。

例えば、「学校スタンダード」と呼ばれる標準的なルールを制定して、それらを子どもたちに厳守させようとするような取り組みは、その例の1つです。しかし、普通に考えれば、こうした取り組みが現実的でないことは、誰にでもわかることです。

例えば、62歳男性の再任用教員、22歳の新卒女性教員が同じ学年を担任しています。前者は国体に出場したことのある元テニスプレーヤー、後者は読書が趣味の文学部出身。この2人の教室が同じように運営できるなんてことは、誰が考えてもありえないことです。

もちろん、双方のよさを生かして、2つのクラスの差を小さくするために、一部教科指導を交替するというようなことは、考えられます。しかし、それでも2つの教室を同じように運営することは、難しいでしょう。

それでもなお校長が、「学校スタンダート」を学級運営の柱とした画一的な指導を、この2人に求めるとしたら、当然困ったことになります。

4月当初、優しくて、よく遊んでくれる新卒女性教員は、子どもたちの信頼を得て、粗削りながらもよいスタートを切ります。しかし、6月の運動会シーズンに入ると、62歳の男性教員から、「先生のクラスは、規律が崩れている。もっと、厳しく指導しなくちゃだめだ。運動会後は荒れるぞ!」と「指導」を受けます。同じ時期に、校長からも「足並みをそろえて、学校スタンダードの徹底を」と言われます。

女性教員は不安になり、指導を「厳しく」します。細かな点を指導するようにしましたし、ときには厳しい口調で子どもを叱るようになりました。子どもたちは、注意されればされるほど、不適切な行動を取るようになります。

こうした校長やベテラン教員からのプレッシャーのかけ方は間違っています。多くの場合、若い教員は潰れてしまいます。こうした若い教員に必要なのは、「どういう教員になりたいのか」「今の学級での担任としての困り感は何なのか」「その解決には、どんなことができそうか」などと質問しながら、その教員の進むべき道をくっきりとさせてあげる対話です。

そして、職員室は教室と地続きですから、職員間の関わりが、教員と子どもとの関わり方のロールモデルとなります。職員間の不適切な関わり方が、教員と子どもとの関係に反映することは間違いありません。画一的に、何かを押し付ける校長のリーダーシップの質を変えることが、学級崩壊を防ぐ1つのポイントです。

2つ目は、教員のマインドを変えることです。以前の学校は「単一規範」によって、「みんなに同じ指導をする」ことを標榜していました。それを、多くの子どもたちの発達を保障するために「一人ひとりの特性に合った指導」をしようと、学校は子どもに対する指導方針を転換したわけです。

ところが、これにはまだ多くの課題があり、その課題は現在も解決されていないと、筆者は考えています。では、どうすればよいのでしょうか。

それは、何より教員のマインドを変えることによって解決できるはずです。「一人ひとりの特性に合った方法を選んだり提案したりするのは、教員ではなくて子どもだ」としてみましょう。つまり、学習者が本当の意味で主体となった授業を具現化しようとしてみるのです。何が変わるでしょうか。次のような授業の導入場面を、思い浮かべてみてください。

教員:「分数÷分数の計算ができる」が、今日の授業のゴールです。この学習は、中学校に行っても使うし、世の中に出ても使うよ。この時間の終了5分前には、今日の学習が身に付いたかどうかを点検するためのテストをします。内容を身に付けることが目標ですので、教室のどこで、どんなふうに学習しても構いません。教科書を使いたい人、プリントで学習したい人、先生の説明を聞いて学びたい人、一人で学びたい人、友達と学びたい人、それぞれ選んでください。質問はありますか?

子ども:「教室のどこで、やってもいい」なら、立っててもいいんですか?

教員:あなたがゴールに到達できて、ほかの人の学びを邪魔しなければ結構です。

子ども:解答を見ながら、やってもいいですか?

教員:今日のゴールに到達できれば、つまり、問題が解けるようになるなら結構です……。

 

いかがでしょうか。特別な支援が必要な子も、ないと思われている子も、こうした授業であれば、全員が満足して、主体的に学べる可能性があるのではないでしょうか。こうした誰もが学びやすい環境を具現しようとする、例えば「学びのユニバーサルデザイン」の考え方※2は、近年学校現場で注目されているフレームワークの1つです。

「一人ひとりの特性に合った」学習の仕方を教員が選び、一方的に提供する限り、子どもや保護者の感じる不公平感を取り除くことは難しいです。学習の目的や目標を教師が明示したうえで、子どもたちが自分で学び方を選べるような環境を用意する。それこそがこれからの教員の役割。そして、今の教員に必要なマインドではないでしょうか。

※2 トレイシー・E・ホール、アン・マイヤー、デイビッド・H・ローズ 編著 バーンズ亀山静子 訳(2018)『UDL 学びのユニバーサルデザイン』東洋館出版社

3つ目は、異質な教員がチームで指導に当たることです。子どもにも特性があるように、教員にも特性があります。教科指導が得意な教員もいれば、生徒指導で力を発揮する教員もいます。また、子どもから話を引き出すことが得意な教員もいれば、何かを説得するのが得意な教員もいます。

おのおのの特性を持った教員が、単独で学級運営を行ったり、トラブル対応をしたりすれば、どのようなことが起きるでしょうか。当然、得意ではないタイプの指導をしなくてはならないときがあり、そのときは成果が十分に上がらないというようなことが起こります。

とくに小学校教員は、担任が生徒指導のすべてを担うというようなことが、慣習となっています。これでは、さまざまな子どもたちがいる教室のトラブルを、子どもたちの成長に結び付けることは難しいです。

そこで、複数の教員で事前に役割を分担しておきながら、学級で起こるトラブルの解決に当たることにします。トラブルが起きたら、子どもからの聞き取りや、その後の指導なども違うタイプの2人がペアとなって事に当たるようにします。

このとき、重要なことは、異質な教員でチームを形成して指導に当たるということです。「チーム学校」が、「足並みをそろえる」ことのように誤解され、チーム力を発揮できない状態になるのは、同質メンバーのチームを目指しているからにほかなりません。「一枚岩」という例えがありますが、それは同じ形のレンガを組み合わせるのではなく、形の違うパズルピースを組み合わせるべきです。違う形のものが、お互いに「かみ合っている」ほうが崩れにくいのです。

教員がチームとして、子どもたちの豊かな学びを保障するには、教員が異質であることが認められ(むしろ求められ)、その教員らしい働き方が保障されることが何より肝心です。

(注記のない写真:ふじよ / PIXTA)