1991年8月19日午前9時を少し回ったとき、「ラトビア青年」紙記者のイーゴリ・ラズモフスキー氏から大使館に連絡があった。大使館に近い地下鉄アルバート駅から電話しているという。大使館から徒歩3、4分でゲルツェン通りのタス通信社側に立ち飲みカフェがあるので、そこで待ち合わせた。
このカフェは筆者が赴任した88年時点ではコーヒー豆以外の原料で作られた代用コーヒーしか出さなかったが、このときは西側から人道支援物資として供与された「ネスカフェ」を出した。インスタントだがカフェインが入っているので、飲むと頭がすっきりする。ラズモフスキー氏はコーヒーや紅茶を飲まない。店にあるピーチネクターを飲んだ。
通信手段の確保が重要
「これからホワイトハウス(ロシア政府・最高会議)に行こうと思います。民主派が集まってきています。記者も集まっています」
「それじゃ、電話用にこれを使ってくれ。500回は電話できると思う」
そう言って、筆者は収集したすべての硬貨が入った厚手のビニール袋をラズモフスキー氏に渡した。ずっしり重かった。
「ありがとうございます。これを全部使っていいのですか」
「構わない。あなたが私以外の仕事で使ってもいいし、友人にあげても構わない。あなたの判断で自由に使ってほしい」
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