2つの「東京オリ・パラ」がもたらした「ストーリー」 「近未来日本」を見通すヒストリーという武器

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吉田が象徴した戦後日本の安全保障政策は後に吉田ドクトリンと言われ、その系譜は吉田路線とも称される。おおむね「軽武装」「対米防衛依存」「経済優先」を内容としている。

標語のようにすっきりしているが、今の私たちにとってわかりやすいわけではない。「軽武装」とは、吉田政権当時唱えられていた「非武装」ではなく、かといって敗戦前の帝国日本のような軍事強国でもなく、最低限の武装にとどめるという意味である。「対米防衛依存」も当時注目された「中立」政策ではなく、新たに始まった冷戦の中で、アメリカの軍事的保護に期待するということである。

そして「経済優先」は、必要な軍備よりも経済活動に資源を振り向けたいという金儲け主義のようにも議論されるが、吉田の文脈では敗戦後の焼け跡からの回復を最優先し、国民が食べていかないといけないという意味である。吉田は安全保障に消極的な憲法の改正も急がなかった。

戦後日本の消極的な安全保障政策

こうして吉田が1951年に結んだ日米安保条約はあくまでも日本が再軍備を果たすまでの暫定的なものであったが、1960年に岸信介内閣で改定され、戦災復興が経済成長に移行する中でも継承されていく。

日本外交史では戦後日本の基盤として、①日本国憲法(1947年)、②対日平和条約と日米安保条約のセット(1952年)、③55年体制(1955年)を重視する。55年体制は憲法改正に積極的な自由民主党と否定的な日本社会党が対峙し、現状を固定化する効果があった。

このような戦後日本の消極的な安全保障政策は続き、1989年の冷戦終結を経て、1991年の湾岸戦争で問い直された。いかに継続的であったか、1920年代初頭には第1次世界大戦の戦勝国として国際連盟を担い、民主的な政治慣行を育みつつあった帝国日本が、10年後には国際秩序の攪乱者として行動し、20年後には政党政治も振り捨てて保身のための先制攻撃を行わなければならなかったことを想起したい。

吉田の選択のもう一つの特徴は、強い支持者のいない“ぶらかし戦法”的な脇道の選択がいつの間にかメインストリームとなったことである。日本国憲法は平和憲法とも美称される。その観点からいえば日本国憲法は平和的であればあるほどよいのであるから自衛隊は憲法に認められない軍隊であり、日米安保条約も再び日本を焦土としかねない危険な選択に見えた。他方、独立国は小なりとはいえ自らを守らなければならないとすれば憲法を改正して疑念を解消し、国軍を建設して日米の対等な協力と国際平和への寄与を目指すことが責任ある政治にも見えた。吉田の選択はいずれでもなかった。

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