2つの「東京オリ・パラ」がもたらした「ストーリー」 「近未来日本」を見通すヒストリーという武器

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目の前の変化を理解するには、2つのことを知らなければならない。第1に、目の前の変化が本当に大きな変化なのかどうか、比較すべき他の例を考えること。第2に、変化の出発点を知ること。

変化の出発点が曖昧だと、どこからどのように変化したのかがわからず、気持ちばかりがはやってしまう。「戦後の大転換」と言われるが、そもそも「戦後」とは何だったのか。私たちは現在どこに立っているのか。これはヒストリーの出番である。

「戦後」ストーリーとしての平和憲法と吉田ドクトリン

何かを考えるには比較が重要であり、ヒストリーが提供できるのは時間軸での比較、いわば縦の比較である。

日本の安全保障政策の「戦後の大転換」という言葉は今回初めて耳にするものではない。直近では2014年、第2次安倍晋三内閣で行われた集団的自衛権行使の限定容認が思い出される。さらにさかのぼれば、1992年の宮澤喜一内閣での自衛隊海外派遣もそうであった。新たに成立したPKO協力法に基づき、カンボジア再建のため自衛隊が大々的に海を渡った。

今後、日本国憲法が改正されたら、それも同じように議論されるのだろう。何度も何度も大転換と言われると、オオカミ少年よろしく私たちは変化に鈍感になってしまう。したがって、どのような変化なのか、何から何に変化しているのかを静かに見つめる必要がある。

現在の日本は「戦後」につくられた。それは一つの理解であり、ある世代以上にとっては体験でもある。近代日本はいくつもの戦争に従事してきたが、もちろんここで言う「戦後」の戦争は日中戦争から太平洋戦争へと拡大した先の大戦であり、アジア・太平洋戦争とも呼ばれる。1945年、自ら招いた9年越しの戦争に敗れ、さらに8年越しの占領を受けた。この敗戦によって国民に精神的な革命が起き、1947年の日本国憲法によって制度化されたのだろうか。多分に神話的であるが、一面の真理でもある。

しかし、占領期の歴史研究が進み、戦後の研究が続くと、担い手としての吉田茂が注目されるようになった。彼は1946〜1947年、1948〜1954年の2度首相を務め、サンフランシスコ講和を結んで占領を終わらせ、日米安全保障条約を結んで戦後の生存の足場を築いた。彼が政権を去るときには不人気を極めたが、その後、日本が戦争に巻き込まれることなく、1960年代には高度経済成長が続き、彼の政治的教え子が相次いで首相を務める中、評価は急上昇、1967年の死去時には佐藤栄作首相の熱意によって国葬で送られた。

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