
(写真:國分氏提供)
通知表を出すのは、当たり前のことなのか?
重:先生、それすごい! 子どもたちに、自己決定権、自己肯定感、そして責任感が育まれるすばらしい環境です。
國:学校という組織って、先生たちが強制力を持っていて、子どもたちはそれに従わなきゃいけない。なぜかそういう空気になっていませんか? 確かに、この人数を見ていこうと思うと、ある程度集団を組んで見ていかなきゃいけない側面もあるのだけど。でも、それって当たり前なのかな? こんな窮屈な所にいないほうが普通かも! という発想を持つと、学校の行事とか、あり方が変わっていくんです。
重:おっしゃるようにリフレームして見ると、まったく違った世界が見えてきますよね。
國:通知表に関しては、まず2020年度に学習指導要領が大きく変わるということがありました。通知表も評価の観点が4観点から3観点に変わるということで、必然的に通知表のあり方を変える必要があった。ではどう変えるかという話し合いから始まり、その時に「子どもたちにとっていいものに変えたい」という意見がありました。
どうしても、既存の通知表は、通知表を見て「よし、頑張るぞ」にはなりにくい。親も「十分達成している」に丸があればいい、「努力が必要である」に丸が多ければ「もっと勉強しなさい」と、そういうふうにしか使われなくて。だから通知表をもらって、子どもたちが「次の学期は頑張るぞ!」と思えるようなものを作るにはどうしたらいいのだろうと、そこからみんなで考えたのです。
重:確かに、ほかの子と比べて、自分は出来る、出来ないの相対評価になりがちかもしれません。
國:今の学校は、絶対評価で子どもを評価しています。小学校は相対評価をすべき場所ではないだろうと思っているからです。でも、子どもたちや親の感覚は、必ずしもそうではないこともあります。そんな時、ある若い先生に「通知表があるのがOKなら、通知表がなしというのもOKなんですか?」と聞かれたのです。
重:出た、クリティカルシンキング! 従来の当たり前を疑う力。
國:通知表は、各学校で工夫して出すという決まりなので、学校で決めてしまえば出さないこともできるんですね。それも選択肢の1つなのです。「通知表を出さない、ということを選ぶこともできるよ」と話したら、先生たちが今度は「出したほうがいいか、出さないほうがいいか」で話し合いを始めることになりました。そこからいろんな意見や心配事が出て、何回も話し合いを重ねた結果、最終的に多くの先生が「じゃあ、通知表をやめてみよう」という意見になったのです。
重:えええーっ! それって校長裁量で決めちゃえるの?
國:そうですね、校長裁量です。別途「指導要録」という児童がどういう学びを修めてきたかを記録するものがあるのですが、これは法律で作ることが決められているので作ります。しかし、通知表はそうではありません。
実は通知表をやめたかったいちばんの理由は、子ども同士が、自分たちを比べたり、見えない序列をつけるということだったんです。先生たちも、それはなんとなく感じていた。子どもたちには「みんな違っていいよね」と、授業をしているのに、通知表を配った瞬間に、子どもたちが「私は優秀だ」とか「あいつはバカだ」とか「だって俺は算数できないし」になってしまう。
重:でも「当たり前にある」通知表をやめちゃうって、保護者からの反対や、問題はなかったのですか?
國:まず、保護者の方には、今まで年2回渡していた通知表がなくなっても、教員は、いつでも聞かれれば今まで伝えていたような評価を伝えることができますよ。通知表を作成するために割いていた膨大な時間を、普段から子どもたちを見る時間に使いますよ、と伝えました。従来の通知表よりも具体的に、かつ細かいスパンでお子さんのよいところを認めていくので、一緒に保護者の方も認めていきませんか、という投げ方をしたところ、「そうですね、じゃあ挑戦してみましょうか」というような声が出てきてくれた。