熊本市といえば、新型コロナウイルスの感染拡大により学校が一斉休校になった2020年4月、ほかの自治体が何もできずにいたのを横目に、市内の全小中学校でオンライン授業を実現させたことで一躍有名になった自治体だ。
こう聞くと、ICTの導入が進んでいただけと思う読者が中にはいるかもしれないが、熊本市は17年まで教育現場におけるICTの活用は政令指定都市で下から2番目という危機的な状況にあった。同年、熊本市の教育長に着任した遠藤洋路氏の下、教職員に1人1台、児童生徒3人に1台の端末整備を目指し、19年に小学校で、20年に中学校で配備を完了させた。
その後、「意外といいらしいよ」と勧められて使い始める先生や、「もう少し使いたいな」という声が多くなり、「児童生徒1人に1台の端末にしてほしい」という要望が強くなっていったという。そんな矢先に新型コロナの感染拡大が始まった。3人に1台整備した学校端末はフル稼働、残りは家庭の端末でちょうどぴったりと1人1台を実現し、オンライン授業に踏み切れたというわけだ。
これをきっかけに、「熊本市はすごい」と声をかけられることが増え、先生や教育委員会の人々が自信と誇りを持つようになったというが、こうしたコロナ禍のさまざまな経験が今、熊本市の教育に大きな変化をもたらしている。
今の日本の教育は、将来のことばかりを考えている
「学習指導要領にある『主体的・対話的で深い学び』を頭ではわかっていました。でも、新型コロナウイルスで世の中がガラッと変わって不安定になり、今後もこういうことが起こるとしたら……その中で生きていく子どもに何が必要なのか。そう考えたら、『自ら考え行動し、自分で自分を、そして世の中をよくしていく力が必要』だと実感しました」
こう話す遠藤氏は、コロナの前とは教育に対する考え方が大きく変わったという。
まさに予測困難な時代の象徴ともいうべきコロナ禍に直面し、学校で身に付ける力が10年後、20年後の社会で役に立つ保証がないことを身をもって痛感したのだ。そして「今の日本の教育は、将来のことばかりを考えている」と違和感を覚えるようになった。
「これまで学校では、子どもに我慢や無理をさせることが多かった。『そんなんじゃ、将来苦労するよ』と言いますが、実際はわかりませんよね。もはや今日の延長が明日という社会ではありませんから。でも『今』だったらどうか。子どもの『今』だったら保証できます。子どもの『今』を幸せにする、そして将来幸せになる力を付けることに目を向ければ、学校のあり方が変わると考えています」
将来のための教育だと言えば、未来にならないと成果はわからないと言い訳がきく。だが、「今」に視点を移せば、結果は目の前に表れる。責任が問われるし、改善も必要になるから学校教育が目に見えて変わっていく。当然、現在の学校教育が変われば、子どもの将来の姿も変わるということだろう。
「ウェルビーイング」実現のため「エージェンシー」を育成する
そこで2020年7月、新しく熊本市が掲げた教育理念が「豊かな人生とよりよい社会を創造するために、自ら考え主体的に行動できる人を育む」だ。
この理念の基となっているのが、「ウェルビーイング」と「エージェンシー」という考え方である。現在の学習指導要領にある「予測困難な時代の教育のあり方」と、OECD(経済協力開発機構)のEducation2030をベースに、「ウェルビーイング」を豊かな人生とよりよい社会の創造、「エージェンシー」を自ら考え主体的に行動できる力としたわけだ。
新しい教育理念は、教育委員会はもちろん、学校の校長室にも貼ってあり、目標を意識して方向性を確認しながら進めるといった意思決定の指針になっているという。現場の教員からも好評で、学校や学年の目標も「これでいい!」と各所から声が上がるほどだ。
「いろいろ考えると、結局これになるんです。しかし、ウェルビーイングが、呪文のように唱えられているだけでは仕方がない。理念が、現実の活動に反映されていなければ意味がないのです。理念ができて、その方向性に基づいた学校改革が進められており、実際の活動になっていることをみんなが感じている。日々の学校生活にどう反映されているのかわからないような理念とは違って、生きた理念になっているんです」
では、「ウェルビーイング」を実現できるように、「エージェンシー」が身に付く教育を行っていくというのは、どういうことなのか。いちばんわかりやすいのは、小学校や中学校におけるルールや校則の見直しだろう。
今、全国で「ブラック校則」が話題となり、靴下や下着の色の指定、頭髪は黒髪でなければならない、ツーブロックの禁止など、根拠に乏しかったり、行き過ぎた校則を見直す学校が増えている。だが、熊本県では早くから見直しに着手してきた。
「校則のあり方の見直しは、20年から議論を始めました。エージェンシーを身に付ける教育として最適だからです。現在の国際情勢を見ても、民主主義を守っていくのは重要でしょう。中学校だけでなく、学校によっては小学校にも標準服があったり、持ち物の決まりや、水筒の中身は水かお茶でなければならないなど、さまざまなルールがあります。実践としてのルールメイキングに、子どもが自ら参画することで、自分たちが自分たちの社会をつくっていくという意識が身に付きます」
しかもそれは、イベントとして開催するという生半可なものではない。小1から中3まで、小学1年生は1年生なりに、高学年は高学年なりにといったように9年間を通して高度化させていくという。「なぜ校則の見直しをする必要があるのか」から始まり、自分たちで考え、納得いかなかったら変えるという活動を「学校で学ぶ大事なこと」として行うのだ。
いかにも各学校で取り組みに差が出てきそうだが、教育委員会としては校則の見直しを明確に打ち出しはするものの、どこまでやるかやスピードは問わない。もちろん、教育委員会としてサポートはするが、うるさくは言わない。この現場を信頼して任せる、できるところからやるのでいい、というのがここ数年で浸透し、自然に広がっているという。
教職員の「今」の幸せのための働き方改革
熊本市では、教職員の「今」の幸せのために働き方改革にも取り組んできた。
遠藤氏は教育長に就任した当初から「働き方改革はすべての改革」の前提として、1. 正規の勤務時間外の在校時間が1カ月80時間を超える教職員数ゼロ、2. 教職員の正規の勤務時間外の在校時間を25%削減(40時間から30時間に)を目標にしてきたのだ。
勤務実態や勤務時間外の業務内容の把握などによって実態を明らかにするとともに、学校の自動応答電話や閉庁日の導入、校務支援システムなどICTを活用した業務削減に取り組んできた。その結果、目標は達成していないものの勤務時間は3年前と比較して全体的に短くなっているという。
「あとは、中学校の部活動をどうするかと、教頭の業務をどう分散させるかです。部活動が勤務時間に入る限り、勤務時間のこれ以上の削減は難しい。そこで別法人をつくり指導員を雇用して派遣する仕組みにしようとしている。学校の先生も部活動指導をする場合には、法人の指導員として報酬をもらい副業としてやることを考えています。また教頭の業務削減は、まず管理職がやらなくてもいい業務の分散と、業務補助を行う秘書のような支援員を配置できないかと考えています」
ICTの活用、校則の見直し、働き方改革……矢継ぎ早で改革に着手する熊本市。
今後は、どんな改革を予定しているのか。その問いに遠藤氏は「長期的な計画を立てても仕方ない」と言い切る。熊本で育って、熊本で育ったわけではない外から来た自分から見ると、いろいろな課題が自然に見えてくるという。
「計画を立てるのは時間と労力がかかります。もはや計画ができた時に、実際そういう社会になっているかもわかりません。教育振興基本計画や大綱なども理念こそが大事で、理念を持ったうえで、目の前に出てくる課題に次々と取り組むことに時間と労力を使ったほうがいいと思っています」
熊本市が目指すのは、自ら考え行動する教育委員会だ。教育行政を担うのは文部科学省だが、学校を設置するのは自治体で、運営するのは教育委員会。ここが少し複雑なところだが、遠藤氏は「文科省は人と予算をつけてくれればいい。それ以外は任せてほしい。自分たちで決めて自分たちでやるのが当たり前」と話す。そもそも子どもたちのエージェンシーを育てるには、見本となるよう大人たちがエージェンシーを身に付け、自ら主体的に行動する姿を見せることが大切ということだろう。
遠藤氏は、これからの学校の姿として、家に居場所がなかったり食事が取れない子どもなどの生活全般を保障する福祉機能を持たせた学校の可能性なども視野に入れている。コロナ禍のオンライン授業に不登校の子が参加できたことから、21年度に不登校児童生徒対象の「フレンドリーオンライン(オンライン学習支援校)」を市内の小中学校に1校ずつ開校させている。これも新しい学校の形で、子どもたちの「今」の幸せを追求した結果といえるだろう。
「それは、子どもたちの『今』の幸せとして正しいことなのか」。そう問いながら進む熊本市の改革から今後も目が離せない。
(文:編集部 細川めぐみ、写真:ペイレスイメージズ1(モデル) / PIXTA)