かつて小野グループや林原は地方有力企業の代表格だった。指導者はともに独特の経営姿勢で知られた。そして両社は、長年にわたり粉飾を続けていた点でも共通していた。
福井県きっての有力企業群「小野グループ」の経営破綻が突然明らかになったのは2012年10月26日のことだ。その日午後3時、ワシ興産、ワシマイヤー、アサヒオプティカルの中核3社に対し東京地裁が会社更生手続きに伴う保全管理命令を下したのである。破綻劇の異常さを物語っていたのはその申立人の名前だ。それは会社自身ではなく、メインバンクの福井銀行だった。すべての原因は長年にわたり続けられていた粉飾行為にあった。
それまで、小野グループを率いる小野光太郎氏は地元の名士で通っていた。もともとは商社マン。1968年、福井県内で工場を展開していた西ドイツ系繊維機械メーカーの役員に転じ、すぐに実績を上げた。以来、アルミニウム鍛造品のワシ興産や、自動車用ホイール製造のワシマイヤーなど、自らの会社を県内に次々と設立。後者は後にF1用マグネシウム鍛造ホイールの量産にも成功した。
小野氏の名前が全国区となったのは80〜90年代。相次いで不振企業の再建請負人を買って出たのだ。最初は富山県の製紙会社チューエツ。さらに84年、京都府にあった浜口染工の再建に乗り出す。このとき接点を持った旧第一勧業銀行とはその後、暗闇をのぞき込むほどの深い付き合いとなった。バブル崩壊後、不振融資先の扱いに困った同行はそれらを次々と小野氏に持ち込んだ。93年に買収した機械製造の壽工業を手始めに、94年にコンビニのサンクスアンドアソシエイツ、96年に照明器具のローヤル電機と、小野氏はその要請に応えていく。そして97年、創業社長が失踪し漂流状態にあったニッセキハウス工業を傘下に収める。
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