ソフトバンク社長室から学校長に転身した理由
2020年2月28日、日本で最初の「新型コロナウイルス緊急事態宣言」が発出された北海道。日本中が混乱に包まれる中、翌日からオンライン授業を開始した学校がある。札幌新陽高校だ。
生徒たちは自宅でパソコンを開き、時間割に沿って授業を受ける。その内容も、オンライン上で問題を解くものから自宅で簡単な実験を行ってリポートを提出するものまで幅広い。教員はオンラインを通じて、それぞれの生徒がどの問題を解いてどんな答えを書き込んだかをリアルタイムで把握する。
その充実度もさることながら、興味深い点が2つある。1つは、これらは教員たちが自分たちで考えながら始めたものであること。もう1つは、同校のオンライン授業について1人の生徒がPDFにまとめたものを自らTwitterで発信し、他校の教員に広くシェアされていったことだ。コロナ禍でも学びを止めなかった同校は一躍大きな注目を浴びた。なぜ、教員も生徒も自ら行動できるのか。札幌新陽高校とはいったいどんな学校なのか。
札幌新陽高校は学校長の荒井優氏の祖父が創立し、父が理事長を務める私立高校だ。リクルートを経てソフトバンクの社長室に勤務していた荒井氏が校長に就任したのは16年2月のこと。市内に70ある高校の中でも偏差値が低迷し、経営難にあった同校の立て直しを求められたのだ。荒井氏は、こう当時を振り返る。
「16年度の福岡教育大学の調査によると、中学3年生で小学4年生レベルの算数の問題が解けない生徒が3割程度いることがわかっています。これは偏差値45以下に当たるわけですが、本校にはそうした生徒が集まっていました。小学4年生の学力がないので、中学の学力を前提とした『数学Ⅰ』や英語の授業が理解できないのです。前任の校長に現状を聞くと『教育の基本はあいさつ。うちの学校はあいさつができない。だから駄目だ』と言われました」
「やりなさい」ではなく「うれしかった」生徒たちを変えた言葉
少子化が進む中、生徒も先生も自信を失った同校への志願者は減少する一方だった。身売り案が出るほど経営は追い込まれていたのだ。
「偏差値45〜55の生徒は先生との出会いで変わる可能性がありますが、偏差値45以下の生徒は部活動以外で引っ張り上げるのが難しいとされていました。けれど、今までの学校教育が光を当ててこなかった層に届くような教育をしっかり構築すれば、可能性はあると思うのです」
就任して間もなく、荒井氏は同校の清掃を担当するシルバー人材の人々とお茶会を開いた。そこで予想外の声を聞いた。それは「生徒があいさつしてくれるのがうれしくて、毎日楽しい」というものだった。
「新学期になり、初めて生徒の前に立ったときにその話をしたら、次の日から多くの生徒があいさつをするようになって。東京から僕に会いに来た友人も『いろいろ課題があると聞いたけど、生徒があいさつしてくれるのがいいね』と言ってくれたんです。それがうれしかったとまた生徒に話したら、さらにあいさつするようになりました」
「やりなさい」ではなく「うれしかった」。その言葉が、それまで学校で評価されてこなかった生徒たちを変えたのだ。出入り自由にした校長室に話をしにくる生徒も増えた。
「テレビ局のカメラマンになりたい」という女子生徒には学校紹介の動画制作を任せた。完成したのは、施設紹介のようなありきたりの動画ではなく、生徒や教員の何げない表情や笑顔を撮影した生徒の視線で追ったもの。学校の一員になった気分が味わえるようなその動画が全校集会で披露されると、生徒が食い入るように見つめた。勤続20年以上の教頭が「こんなに体育館が静かになったのは初めて」と言うほどだった。
従来の偏差値重視の教育に合わない子を伸ばす学びとは
変化したのは生徒たちだけではなかった。
「僕が来たばかりの頃、先生たちは頻繁に決済を求めにきました。でも、その内容は一般生活でいえば食事中にいちいち『水を飲んでいいですか?』と確認するようなもの。『先生はどう思う?』というやり取りを重ねたうえで権限を委譲していきました。『何かあっても僕が最後に謝ればいいからやってみたらいいんじゃない?』と言って」
教員をエンパワーメントするとともに、課題解決型の学びを重視するようにしていった。
「これまでの偏差値重視の教育に合わない子、がんじがらめの教育になじめない子は探究型の学びで自分を表現できるようになるんです」
その内容は実にユニークだ。例えば、消費が落ち込む牛乳をテーマにしたワークショップ形式のオンライン授業を業務提携しているコープさっぽろと開催するなど、企業と連携して実践的な学びを行っている。また、自分で開拓したインターン先にIllustratorで自作した名刺を持っていくという授業もある。
さらに、同校に設置された探究コースでは3カ月間、全教科でアイヌ文化を学ぶ授業を実施した。これは、北海道初の国立博物館であるウポポイ(民族共生象徴空間)に行った生徒が自主的にゼミをつくって学び始めたことから、教員たちがカリキュラムに取り入れようと始まったものだ。
こうした課題解決型の学びを支えるツールの1つとして、教員と生徒に1人1台Chromebookを配付している。ICTを利用すれば一人ひとりに合った問題も提供できるため、同校が重視している自律学習がしやすい。
まさに20年2月の緊急事態宣言翌日のオンライン授業は、これまでの蓄積があって実現したものだったのだ。その様子をネットで発信した当時2年生の市村隼汰さんは、11月に行われた未来の教育イノベーター会議で平井卓也デジタル改革担当大臣らに、同校のオンライン教育についてプレゼンテーションを行う機会を得た。
オンライン入試が問う学校と生徒の「本気で挑戦する覚悟」
コロナ禍を機に多くの学校で進んだ教育のオンライン化。札幌新陽高校では授業や校務管理に加え、21年度の入試もすべてオンラインで実施された。ペーパーテストはなく、面接と課題のみの入試だ。既成概念を覆すようなこの入試では、生徒のどんなところを見ているのだろうか。
「それは本気で挑戦する覚悟です。これからの社会で生きていくために重要なのは、挑戦し続けること。本校が目指すのは『本気で挑戦する人の母校』になること。一人ひとりの学びたいことを応援したいのです」
しかし、従来のペーパーテストと違う入試に、戸惑う生徒は多いはず。そこで同校ではミライ塾と名付けた入試対策塾を開催。メールで送られてくるワークに取り組み、教員からのフィードバックを受ける。結果は入試には反映されないが、おのずと入試対策になるという。さらに、セミナーやオープンスクールの参加状況や課題の質によってパスポートを申請する「新陽パスポート制度」を導入。パスポートが認定されると、入試が面接のみになる。長い時間をかけて教育方針を理解してもらえればミスマッチが防げるうえ、入学後のスムーズな学びにつながるはずだ。
「自発的に挑戦する生徒を育てるには、大人がそうなることが大切です。中には自分の思いをうまく表現できない生徒もいますが、僕らが思っている以上に生徒は『大人が本気で挑戦しているか』を見ています。だから、僕は先生たちに『挑戦したらいいよ』としか言っていないんです」
かつては定員割れで経営困難に陥っていた札幌新陽高校。19年度は創立以来初めての北海道大学を含めた大学・短大に147名が進学し、20年度には米アリゾナ州立大学、コロラド州立大学に合格する生徒も現れた。進学という道に限らず、生徒のさまざまな可能性を引き出している。変化を続ける同校の今後に引き続き注目したい。
(写真はすべて札幌新陽高校提供)