
国際派、理論家、型破り――。さらには「ケンカまさ」の異名を持つ異色バンカー。金融激動の時代を駆け抜いた田中正明氏の証言を、4回に分けてお届けする。
2003年4月、日本の不良債権処理の遅れに対する国際的な批判が強まる中、産業再生機構が発足した。その1年前、財務省の武藤敏郎事務次官が東京三菱銀行の岸暁会長の元を訪問した。不良債権問題を解決するためのスキーム作りを財務省のチームで検討しているが、実務的な視点がどうしても欠落する。手伝ってもらえないかという相談だった。
岸さんは「うちには知恵者がいるからお任せください」と応え、呼び出された私が会長室に伺うと、「そういうことになったから、手伝ってやってくれ」となった。当時、私は三菱東京フィナンシャル・グループの初代企画担当である経営政策部長。不良債権問題の最終処理に道筋をつける手綱を託された。
当時の銀行は不良債権処理をめぐっていくつかの課題を抱えていた。その1つが、銀行のバランスシートから不良債権が切り離されていないと見なされていたことだ。それまでの共同債権買取機構は銀行出資で運営され、回収後に損金が確定するため、不良債権が金融システムにとどまっていると批判された。
また、「メイン寄せ」によってメインバンクの不良債権がどんどん増えてしまうと、その銀行が耐えられなくなるとの不安が金融界にあった。そこで準メイン以下の債権を産業再生機構に切り離し、メインバンクとの二人三脚で再生に取り組むスキームを描いた。最初は企業再生機構という仮称にしていたが、業界再編の役割を持たせるため産業再生機構という名称にした。
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