1つの背景としては、日本に限った話ではないが、政治家や国・自治体の財政当局(国でいうと財務省、自治体では財政課等)から評価される指標(物差し)として、テストスコアや勤務時間など特定のものが重視されるからだ。全国学力テストの順位が下がれば、議会や首長から批判される。残業時間が減らないのであれば予算は認められない、などと財政当局から言われる。
たしかに、テストスコアや残業時間などの数値目標や実績は、比較的わかりやすい。だが、政治家も財政当局、教育関係者も、特定の指標のみ重視することの弊害について、もっと重く見るべきだ。
しかも、映画「型破りな教室」が示すように、A(テストスコア)かB(子どもの関心、好奇心を高める取り組み)かという二項対立の話ではない。Bをまずやらないと、Aにつながらないという話だ。
「教育改革」が学校をさらに苦しめる
さて、日本のここ十数年の状況を概観すると、「AもBもCもDもEも大事です」と言い、しかも後になって「Fも今後はもっとお願いします」といったビルド&ビルドなスクラップのない学校経営や政策が幅をきかしている。「この数十年で学校でなくなったことと言えば、ぎょう虫検査と座高検査くらいだ」という皮肉なジョークがあるくらいだ。
こうなると、最前線の学校現場としては、すべてのことに全力投球なんてできっこないので、何かは手を抜いたり、カタチだけ整えてやったふうな感じにしたりせざるをえない。その様子を見た政治家や政策担当者(文科省、教育委員会等)の一部は、「まだまだ改革は進んでいない」「浸透していない」などと述べて、「教育改革」と称し、また学校のやることを増やしてしまう。
そんな悪循環をここ十年以上繰り返してきたのではないだろうか。
「型破りな教室」のベースとなった実話のヒントは、大人(とりわけ教職員や保護者)が子どもの可能性を信じること、「どうせこの子たちには無理だ」とか「家庭環境が劣悪なので、学校でいくらやっても」とあきらめるのではなく、「子どもは有能な学び手である」との信念で教育活動を行うことだろう。子どもたちの好奇心と自己効力感(自分はやればできるという感覚)を高めることで、学びへのモチベーションは高まる。
何を先にやるべきなのか、最重点はどこなのかを考えさせられるストーリーだ。ぜひ、政治家や財政当局、それから文科省、教育委員会の方も観て、自分たちのやってきたことを振り返ってほしい。
(注記のない写真:アット エンタテインメント提供)
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