軍隊の名残りも…「体育ぎらい」の理由、教科としての本質を見直すとき 体育座りは体に悪い?劣等感を感じた子も
とくに、小学校低学年など集中力が続きにくい児童に対して、短時間だけ先生の話を聞かせる必要がある場面では、体育座りは有効な手段となりえるでしょう。子どもたちが落ち着いて話を聞くための工夫の1つとして体育座りを用いることは、実践的にも現実的にも必要だと思います。
進む「体育」から「スポーツ」への移行
――戦後80年たった現在では、体育の授業で行われる内容が、従来の体操中心からサッカー、バスケットボールをはじめとするスポーツ種目中心に変わってきました。現在の日本における体育の現状について、どのようにお考えでしょうか。
重要な前提として、「体育」(physical education)と「スポーツ」は別のものだという認識が必要です。「体育」とは、一般的には学校教育における1つの教科であり、いわば「からだの教育」と考えられます。それに対して「スポーツ」そのものは必ずしも教育活動ではなく、その教育のために用いられる1つの「文化」だといえます。
現在、日本では、ほかの多くの国と同様スポーツに重点が置かれる傾向にあります。「体育の日」が「スポーツの日」に変わり、「国民体育大会」が「国民スポーツ大会」に変わったように、「体育」から「スポーツ」への移行が進んでいるようです。

筑波大学体育系助教
1987年東京都生まれ。東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を単位取得退学。博士(教育学)。専門は体育・スポーツ哲学(身体論と欲望論)。著書に『体育がきらい』(筑摩書房)、共編著に『探究 保健体育教師の今と未来 20講』(大修館書店)、共著に『スポーツと遺伝子ドーピングを問う』(晃洋書房)、『はじめて学ぶ体育・スポーツ哲学』(みらい)などがある
(写真:本人提供)
――日本では、体育は高校まで必修科目です。
高校まで必修科目として存在する「保健体育」ですが、このような移行が進む今、「体育」が今後もずっと必修科目としてあり続けるとは限らないのではないかと危機感を持っています。
例えば、アメリカのいくつかの州では体育関連の予算削減が進み、クラブ活動などの課外活動で体育の単位を代替できる制度もあるようです。これは、体育そのものの存在意義が薄れていることを示しています。
体育にとって、スポーツはあくまでも1つの「教材」にすぎません。また、「スポーツをすれば人間性が高まる」といった、心の領域を過剰に評価する考え方には注意が必要だと思っています。 現在の学習指導要領には「人間性」という言葉がありますが、この言葉は人によって解釈が異なり、過去の精神論や根性論につながる可能性もあるため慎重に用いることが必要だと思います。
単に「スポーツを学ぶ教科」ではなく、本来の「子どもたちのからだを豊かに育む教科」として何ができるのか。このことを、私たち体育の専門家が明確に示していく必要があると考えています。
体育の意義は「子どもたちのからだを豊かに変える」こと
――坂本先生は、体育の意義や目的についてどう考えていますか。
私は、哲学的な「身体論」の視点から、授業の場での教師と児童生徒の関係性について研究しています。とくに、体育の授業における教師の話し方や立ち居振る舞いといった身体的なあり方が、児童生徒の学びや感じ方に大きな意味を持つことに着目し、教師の身体的能力を探究しています。
「身体論」の視点から考えると、体育の意義は、「子どもたちのからだを豊かに変えること」だといえます。からだは、心や精神の基盤として存在しています。例えば、子どもが「何かをしたい」と思ったとき、その「何か」を実現するためには、その実践の土台となる「からだ」であることがまず必要です。体育を通じて子どもたちの「からだ」を豊かに変えていくことは、彼らの見える世界や経験できる世界を変え、その世界を豊かにすることだととらえることができます。
また、体育で目指すべき「からだ」は、「速い」「強い」など「スポーツに上手に取り組むからだ」ではなく、「賢いからだ」であると考えています。ここで言う「賢い」とは、周りの人やモノなどに対応し、適切に動けることです。
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