規律の強制、恥ずかしさ…「体育ぎらい」の理由はさまざま

――2024年度スポーツ庁「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」によると、「運動やスポーツをすることがやや嫌い・嫌い」と回答したのは小学生男子6.7%、小学生女子13.7%、中学生男子9.7%、中学生女子23.2%。「体育、保健体育の授業があまり楽しくない・楽しくない」と回答したのは小学生男子5.4%、小学生女子10%、中学生男子8.6%、中学生女子16.2%でした。多数派ではないものの、子どもたちの間に一定数存在する「体育・保健体育嫌い」の要因について、坂本先生の考えをお聞かせください。

要因は、本当に多種多様です。例えば、体育授業の始まりや終わりの際の整列やあいさつ、行進の練習、服装のルールなどに見られる「規律の強制」や、クラスメイトの前で飛び箱やマット運動をさせられ失敗したときの恥ずかしさや劣等感。これらをはじめとして、子どもたちが体育ぎらいになる理由はたくさんあり、人によって異なるのが現実です。

実際、「校庭の砂や泥が体につくのがいや」「汗をかくのが不快」「プールや更衣室など人の目に体をさらすことに抵抗感がある」など環境への不快感、「先生の指導法が合わない」「先生に怒られるのがいや」といった教師のふるまいや言動への苦手意識、「ほかの人と比べられるのが辛かった」のような運動に対するコンプレックスなどもあげられます。

また、体育はほかの教科と異なり、グラウンド、体育館、プールなどいろいろな場所で体を動かし、それを他者に見られる経験を多くすることから、「快か不快か」といった感覚的な要素が強く現れてしまい、「好き嫌い」の価値判断の対象になりやすい面もあるでしょう。

――「体育の授業は軍隊のよう」「体育の先生は軍人みたい」という声も聞こえてきます。

明治から昭和の初期にかけて、日本では軍隊を退役した人を優先的に体育の先生として採用していたことがありました。その後1945年に日本が太平洋戦争に敗戦し、学校教育の抜本的な改革が行われるまでの約70年の間、退役軍人が何らかの形で学校の体育に関わっていたと考えられます。

このことを、戦後80年が経過する2025年の現在から振り返ってみると、日本の学校教育における体育の歴史の約半分の期間、退役軍人と体育の先生は密接に関わっていたことになります。その点を考えると、「軍隊」や「軍人」のイメージが現代の体育や体育教師に残っていても、決して不思議ではありません。

現に、号令、行進、整列の際の「気をつけ」や「休め」は軍隊の名残ともいえ、それらが形骸化して今も存在し続けているのではないでしょうか。

――「体育座り」は腰や内臓に負担がかかり体によくないのではないか、長時間の体育座りが体育嫌いにつながっているのではないか、という意見もあります。

体育座りが日本の教育現場に導入された明確な時期や経緯ははっきりしていません。少なくとも、1987年(改訂版は1993年)に文部省が発行した「体育(保健体育)における集団行動指導の手引」には、「腰をおろして休む姿勢」の1つとして、イラストとともに紹介されています。

「体育座りが体によくない」という意見があることは知っていますが、医学的な根拠や具体的な影響については、必ずしも共通の理解が広まっていないのが現状です。調査や研究が進み、「体育座りが子どもの成長に悪影響を与える」という明確な根拠と共通の理解が得られれば、当然やめていくべきだと思います。ただし一方で、「体育座りをすると落ち着く」という児童生徒、大人がいることも、1つの事実です。

――確かに、感じ方は人それぞれですよね。

あくまで個人的な意見ですが、体育座りは数ある座り方の1つであり、あぐらや正座と同じように、1つの身体文化として捉えることができると思っています。体育座り「だけ」を強制することは問題かもしれませんが、選択肢の1つとして体育座りがあってもよいのではないでしょうか。

とくに、小学校低学年など集中力が続きにくい児童に対して、短時間だけ先生の話を聞かせる必要がある場面では、体育座りは有効な手段となりえるでしょう。子どもたちが落ち着いて話を聞くための工夫の1つとして体育座りを用いることは、実践的にも現実的にも必要だと思います。

進む「体育」から「スポーツ」への移行

――戦後80年たった現在では、体育の授業で行われる内容が、従来の体操中心からサッカー、バスケットボールをはじめとするスポーツ種目中心に変わってきました。現在の日本における体育の現状について、どのようにお考えでしょうか。

重要な前提として、「体育」(physical education)と「スポーツ」は別のものだという認識が必要です。「体育」とは、一般的には学校教育における1つの教科であり、いわば「からだの教育」と考えられます。それに対して「スポーツ」そのものは必ずしも教育活動ではなく、その教育のために用いられる1つの「文化」だといえます。

現在、日本では、ほかの多くの国と同様スポーツに重点が置かれる傾向にあります。「体育の日」が「スポーツの日」に変わり、「国民体育大会」が「国民スポーツ大会」に変わったように、「体育」から「スポーツ」への移行が進んでいるようです。

坂本拓弥(さかもと・たくや)
筑波大学体育系助教
1987年東京都生まれ。東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を単位取得退学。博士(教育学)。専門は体育・スポーツ哲学(身体論と欲望論)。著書に『体育がきらい』(筑摩書房)、共編著に『探究 保健体育教師の今と未来 20講』(大修館書店)、共著に『スポーツと遺伝子ドーピングを問う』(晃洋書房)、『はじめて学ぶ体育・スポーツ哲学』(みらい)などがある
(写真:本人提供)

――日本では、体育は高校まで必修科目です。

高校まで必修科目として存在する「保健体育」ですが、このような移行が進む今、「体育」が今後もずっと必修科目としてあり続けるとは限らないのではないかと危機感を持っています。

例えば、アメリカのいくつかの州では体育関連の予算削減が進み、クラブ活動などの課外活動で体育の単位を代替できる制度もあるようです。これは、体育そのものの存在意義が薄れていることを示しています。

体育にとって、スポーツはあくまでも1つの「教材」にすぎません。また、「スポーツをすれば人間性が高まる」といった、心の領域を過剰に評価する考え方には注意が必要だと思っています。 現在の学習指導要領には「人間性」という言葉がありますが、この言葉は人によって解釈が異なり、過去の精神論や根性論につながる可能性もあるため慎重に用いることが必要だと思います。

単に「スポーツを学ぶ教科」ではなく、本来の「子どもたちのからだを豊かに育む教科」として何ができるのか。このことを、私たち体育の専門家が明確に示していく必要があると考えています。

体育の意義は「子どもたちのからだを豊かに変える」こと

――坂本先生は、体育の意義や目的についてどう考えていますか。

私は、哲学的な「身体論」の視点から、授業の場での教師と児童生徒の関係性について研究しています。とくに、体育の授業における教師の話し方や立ち居振る舞いといった身体的なあり方が、児童生徒の学びや感じ方に大きな意味を持つことに着目し、教師の身体的能力を探究しています。

「身体論」の視点から考えると、体育の意義は、「子どもたちのからだを豊かに変えること」だといえます。からだは、心や精神の基盤として存在しています。例えば、子どもが「何かをしたい」と思ったとき、その「何か」を実現するためには、その実践の土台となる「からだ」であることがまず必要です。体育を通じて子どもたちの「からだ」を豊かに変えていくことは、彼らの見える世界や経験できる世界を変え、その世界を豊かにすることだととらえることができます。

また、体育で目指すべき「からだ」は、「速い」「強い」など「スポーツに上手に取り組むからだ」ではなく、「賢いからだ」であると考えています。ここで言う「賢い」とは、周りの人やモノなどに対応し、適切に動けることです。

そこには、もちろんスポーツ的な要素も含まれてはいますが、ほかにも意図的にからだの力を抜いたり、長時間でも疲れにくい座り方や立ち方ができたりなど、自分や他人のからだとうまく向き合う力も含まれます。

私が体育の意義や目的をこのように考えるのは、子どもたちが多様な他者と共に、自分自身のからだで賢く、幸せに生きていくことが、子どもたちにとってもっとも大切なことだと考えているからです。それはきっと、スポーツがうまくなることよりも、はるかに重要なはずです。

「体育なんて好きにならなくてもいい」

――坂本先生は著書の中で、「体育なんて好きにならなくてもいい」と述べられています。

「からだを豊かに変えていくこと」が目指すべき体育であるならば、学校での体育の授業は、その役割を担う1つの活動であるということになります。

体育の授業では運動を行いますが、日常生活において歩くことも、階段を上ることも運動です。そのように考えると、運動という概念と同じように、「体育」そのものも、本来はもっと広い意味を持っているはずです。だからこそ、「“狭い意味での体育”なんて好きにならなくてもいい」と思っているわけです。

さらにいえば、学校の体育が嫌いでも、自分のからだのことは嫌いにならないでほしいと思っています。なぜなら、「自分のからだを嫌いにならないこと」は、「自分自身を嫌いにならないこと」と同じ意味を持つからです。逆にいえば、自分のからだを知り、賢く付き合っていくことは、自分という唯一無二の存在を、根っこの部分で認めることにつながると思います。

――坂本先生がお考えになる「好きにならなくてもいいけれど、からだを豊かに変えていく楽しさを味わえる」体育の授業とは、例えばどのような授業でしょうか。

跳び箱を例にあげると、小学校の跳び箱の授業でただ「何段跳べたか」を競うのは、決して「豊か」とはいえません。それは「速く走るのがよい」とだけ教えるようなものです。

子どもたちのからだを豊かに変えていくためには、跳び箱を「子どもたちが多様な動きを経験できる教材」ととらえる必要があります。それにより、例えば、子どもたちが協力して何人同時に跳び箱の上に乗れるかに挑戦したり、跳び箱からいろいろな飛び降り方を試したりするようなさまざまな運動が生まれてきます。

このような「遊び」を通し、跳び箱に慣れ親しむ運動を実践することは、からだを豊かにしていくことにつながりますし、恥ずかしさの軽減にもよい影響が及ぶのではないかと思っています。

――跳び箱を、「跳ぶためだけの教材」としてではなく、「遊ぶための道具」として捉えるということですね。先ほどおっしゃられていた「意図的にからだの力を抜く」という視点では、例えばどのような授業がありますか?

バスケットボールの授業を例にあげると、一般的にバスケットボールのドリブルでは、「速く、強く」ドリブルすることがよいとされています。これは、競技としてのバスケットボールにおいては正しい考え方です。

しかし、体育の授業でバスケットボールを教材として扱う場合、必ずしも「速く、強く」だけを追求する必要はありません。例えば、「できるだけゆっくり、できるだけからだの力を抜いて」ドリブルすることを試してみると、面白い発見があります。

バスケットボール部に所属する生徒でも、力を抜くことに慣れていないと肩や腕に力が入ってドリブルがぎこちなくなったりします。一方、バスケットボール経験のない運動が苦手な生徒でも、力を抜く感覚をつかむと、楽に柔らかくドリブルできることがあります。

このような運動経験を通し、力の抜き方やからだの動き方など、多様な体験を通し、「速く、強く」という価値基準だけでなく、「ゆっくり、力を抜いて」という別の価値基準を取り入れることで、子どもたちは自分のからだの新たな可能性に気づくことができます。

――このような授業なら、バスケットボールが苦手な児童生徒もその子なりに楽しさを味わうことができますね。

学習指導要領には、「速く」ドリブルすることが「よい」とは明確には書かれていません。そのため、どのような価値基準で子どもたちに実践させるかは、1人ひとりの先生に委ねられている部分が大きいのです。私たち教師が競技スポーツの論理にとらわれず、「ゆっくり、力を抜いて」といった多様な価値基準を取り入れることで、結果的に、子どもたちはスポーツの新たな楽しみ方を発見できるのではないでしょうか。

――教科全体で、「からだを豊かに変えていく楽しさを味わえる」ための取り組みはありますか?

スポーツの技術に偏りすぎた学校体育の状況を反省したのか、日本では、1998年からそれまでの「体操」領域が「体つくり運動」に変更され、そこでは「体ほぐし運動」が取り入れられるようになりました。

これは「自分や他者のからだへの気づき」などを大切にし、自分1人で、あるいは友達と関わりながらストレッチなどを含めた多様な運動を実践するものです。競争的な要素ではなく、1人ひとりのからだのあり方や感じ方が大切にされるという点で、体育の本質に則った取り組みだといえます。しかし残念ながら、多くの学校では、単なる「準備運動」として扱われており、その目的は十分に達成されていないのが現状だといえます。

――先生は、大学の体育で「寝方の授業」を行っているそうですね。

私が実践した体育の授業では「からだの力を抜く運動」の1つとして「寝方」を取り入れました。もちろん、ただ居眠りをして授業の時間を過ごすのではなく、自分のからだの状態に注意を向けながら、どのようなからだの居方(いかた)であればリラックスした状態をつくることができるのかを考え、実践してもらいます。

もちろん、このような授業を小学生に向けて行うことは難しいと思います。個人的には、高校生や大学生であれば、自分のからだの状態を知り、改めて考えるよい機会になり、社会に出てからも役立つと思っています。

大きな枠組みとしてとらえると、小学校低学年などでは、現在の運動遊びを通してからだを動かす楽しさを実感することに重きをおき、そこから学年が上がるごとに、徐々に自分のからだに意識を向け、からだについて深く理解することに進んでいくようなイメージを持っています。

このように子どもの年齢に応じてからだの学び方を変えていくことで、好き嫌いにかかわらず、自分のからだの変化や特徴を理解できるようになるのではないでしょうか。

体育が嫌いでも自分のからだを嫌いにならないために

――ウェルビーイング、多様性の時代に求められる体育のあり方とは。

ウェルビーイングや多様性は、最近になってよく聞かれるようになった言葉です。しかし、これまでもそれらの内容について、多くの先生方は自覚せずともやってきたのではないでしょうか。

つまり、子どもたちには得意不得意や特徴があることを認識し、そのうえで1人ひとりの子どもたちが幸せになることを望みながら授業を行ってきたのではないかということです。そうだとすれば、ウェルビーイングや多様性という言葉で意図されているのは、これからもそうしたスタンスで取り組むことが求められているということなのだと思います。

多様性については、例えば中学校の体育は、2021年の学習指導要領改訂により、原則的に男女共習となりました。体育の授業を男女別に行うのは、スポーツの技能向上を目指す「競技の論理」に基づいた考え方です。しかし、先ほども述べたように、体育の授業は必ずしもスポーツの技術だけを教える場ではありません。

大切なことは、子どもたちがその授業で何を学び、彼らに何を身につけてほしいかを、私たち教師がもっと自由に発想、探究することかもしれません。すべての体育の授業を共習にする必要はありませんが、お互いに他者を尊重して協力し合ったり、多様なからだの動きを通して自己と他者への理解を深めたりする意味でも、男女共習は積極的に取り入れられるべきだと思っています。

――子どもたちが、体育が嫌いでも自分のからだを嫌いにならないために、教員は何を示すべきでしょうか?

体育が好きかどうかは、子どもたちそれぞれの感じ方であり、それを否定する必要はありません。

ただし、体育の授業を通して学ぶべきことは、それとは関係なく確実に存在します。私たち教師が、これまでお話ししたような「からだ」という視点から体育の大切さをしっかりと理解し、それを子どもたちに伝え、子どもたちと共通の認識を持つことができれば、体育が嫌いな子は減らないかもしれませんが、自分のからだを嫌いになる子は減らすことはできるはずです。

そのためにも大切なことは、「からだ」についての見方を、私たち自身が豊かにしていくことだと思います。みんな、その「からだ」で生きているわけですから。

(企画・文:長島ともこ、注記のない写真:Fast&Slow / PIXTA)