
1973年2月8日。国際通貨体制の基盤であるスミソニアン合意と米ドルの信認が揺らぐ中、米大統領のリチャード・ニクソンは通貨政策のプロである財務次官のポール・ボルカーを東京に急派すると日本側に告げた。第2のニクソンショック到来か、と蔵相の愛知揆一は身構え、緊急省議で対処方針を策定した。
『昭和財政史』によると、まとまった方針は①予算成立前に円レートの改定はできない、②国際協調という面から関係国が為替市場を閉鎖し、フロート(変動相場制)に踏み切る場合にはそれに同調する用意がある、③「ボルカー・ペーパー」を押し付けるようであれば将来の検討事項とし、断る、④西独と同時あるいはその後でなければアクションは起こさない、という内容だった。
ポイントは、フロートに「同調する用意」があると決めたことだ。
実は、1月下旬に愛知が円の単独切り上げに傾いたのを見た大蔵省の事務方は、代わりの案として、「円の再切り上げはできないが、変動相場制なら受け入れ可能」という理屈を編み出していた。
1ドル=308円の基準外国為替相場を変更するなら、73年度予算案の組み替えが必要になるが、フロート制に移行するのであれば組み替える必要はない。
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