
会議で握手するボルカー米財務次官と細見卓財務官(当時、1972年撮影)(写真:毎日新聞社/アフロ)
1973年2月。ドルを金に対して10%切り下げ、同時に円を10%切り上げるという米国の大胆な為替調整案に対し、首相の田中角栄は「仮に合計15%でも日本はのめない」とする対処方針を固めた。しかし米側はこれに怒り、国務長官が外相に直接電話で圧力をかける異常事態となる。日本は極限まで追い込まれた。
2月13日午前6時。大蔵省で緊急省議が開かれる。だが、蔵相の愛知揆一は「議論よりも対処方針を決めるほうが先決だ」と言い、目白にある田中首相邸へ向かった。
田中は愛知に「スミソニアン合意のときの切り上げ率(16.88%)が限度だ。これ以上は譲るな」と強い口調で指示した。
この線だと1ドル=264円になる計算だが、米側の要求するラインは252円で、なお相当な開きがある。この方針は、米財務次官のポール・ボルカーとパリで交渉している大蔵省顧問の細見卓にもすぐさま伝えられた。
そのボルカーから東京にいる財務官の稲村光一に直接電話が来たのは数時間後のことだ。
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