本庄早稲田「新幹線だけの駅」知らない間に大発展 駅名ばかりで判断すると「真の姿」を見誤る
なぜ本庄早稲田なのか。駅名決定を伝えるJR東日本のニュースリリースには、地元で駅名を公募した結果が上位で、地元自治体からも要望があったことに加え、駅の南側に広がる大久保山丘陵地に早稲田大学の施設があり、「早稲田山」 として地元に親しまれていることを挙げている。
実は本庄市と早稲田大学の関わりは古い。太平洋戦争後の経済成長で、早稲田地域のキャンパスが手狭になると感じた早大が、本庄市に目をつけたのは1961年。今から60年以上も前のことで、翌年から土地の取得が始まっている。
1963年には、東京六大学野球の「早慶戦」、学園祭の「早稲田祭」と並び、早稲田大学三大名物行事のひとつとされる、「本庄~早稲田100キロハイク」が、早大公認サークルである早稲田精神昂揚会の手で始まっており、今年も5月に行われた。
一時はキャンパス全面移転を期待する本庄市と、新たな学部の設置程度と考えていた早大の間に温度差が生まれたが、まず1970年にセミナーハウスが竣工すると、早稲田大学創立100周年を迎えた1982年には、付属校の本庄高等学院が設立された。
駅の誘致運動が実を結ぶ
こうした経緯もあり、この地域を上越新幹線が通ることが決まると、市では駅の誘致を始めた。残念ながら開業時には実現しなかったが、その後も県内および群馬県のほかの自治体の協力を取り付け、動きを続けた。
すると1993年に埼玉県から、本庄市および周辺5町1村が「本庄地方拠点都市地域」として指定を受けた。2年後には基本計画が承認され、本庄キャンパスを含む地域は「早稲田リサーチパーク」として位置づけられた。
こうした展開が後押ししたのか、1998年には新駅設置についてJR東日本と埼玉県、本庄市が基本合意し、6年後の開業を迎えた。同時に早稲田リサーチパークもオープンしている。
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