なぜここに?地図にない、横浜「トロッコ廃線跡」 相模原と野毛を結ぶ、日本初の近代水道に貢献
1859年、幕府は横浜に現在の税関を開設し、横浜村に外国人居留区を設けた。横浜村は東海道から離れた小さな村だったが、外国人居留区ができると、商売を求めて多くの人が住み着くようになった。人々が集まると多くの水が必要となるが、井戸を掘っても埋立地のため海水が混じっており、飲み水に適さなかった。そのため、郊外から水を運んで売り歩く、水屋という商売も現れた。
当時の水道は河川や湧水、堀などから木製の桶で水を井戸に流し込んでいたため、ろ過する機能もなく、衛生面で問題があった。そこで、お雇い外国人である英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーの指導の下、相模川と道志川の合流点となる三井(現在の相模原市緑区三井)を用水取入所とし、横浜市の野毛山浄水場までの約44kmを鉄の導水管で水を運ぶ、日本初の近代水道が計画された。
トロッコは初めて見る「鉄道」?
工事は1885年に開始されたが、相当な重さのある直径460mmの鋳鉄製導水管や資材をどのようにして運ぶかが問題となった。当然トラックなどない時代。動力は牛や馬、人力となるが、未舗装の道路を馬車で運ぶのは難しかった。そこで、2フィート(約61cm)幅のレールを敷設し、トロッコにより運搬することとし、動力には牛や馬が使用された。
約44kmにおよぶトロッコ軌道は、1887年の横浜水道の完成で役目を終えるが、当時は横浜線も相模線も相鉄線もない時代。ルート上の村人にとって初めて見る鉄道だったかもしれない。
現在の相鉄線西横浜駅付近で東海道本線と交わるが、東海道本線の横浜―国府津間の開通が1887年7月11日、相模川からの水が野毛山に届いたのが10月4日で、同時期に日本の近代化を推し進める工事現場がクロスしていたのは興味深い。
明治時代に敷設された導水管と工事用トロッコについての案内板はいつ設置されたのだろう。そしてその目的は何なのだろうかと疑問を抱き、横浜市水道局広報課に聞いてみた。
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