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上脇博之「正義の告発」を生み出した家族と仲間 国策の過ちを背負わされた九州人の反撃

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2024年、事件が起きた。戦後長らく権力を形成してきた自民党の派閥が、雪崩を打つように解散したのだ。小さな石つぶてを放ち続けた大学教授の素顔に迫る。

神戸学院大学教授 上脇博之氏
なぜ粘り強く続けられるのかという問いに、「僕が劣等生だから、としか言いようがない」と語った(撮影:ヒラオカスタジオ)

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政治と金の悪習をただすために、情報公開請求や政治資金収支報告書の精査を行い、告発を続けてきた上脇博之教授。その素顔に迫った。
※ひと烈風録【前編】はこちら

上脇は1958年、鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市隼人町)の会社員の家庭に生まれた。3人兄弟の次男で、父は九州電力に勤めていた。一家が暮らす社宅から南へ数分歩けば、浜之市港に出られた。青々と澄んだ錦江湾が目の前に広がり、正面の桜島は濛々(もうもう)と噴煙を上げていた。

浜之市は幕末の志士、坂本龍馬ゆかりの地だ。寺田屋事件で傷を負った龍馬は、妻おりょうを連れ鹿児島の西郷隆盛の邸で英気を養った後、船で浜之市に着いた。上陸して霧島山に登り、湯治を兼ねた新婚旅行を楽しんだと伝わる。

原風景に桜島

上脇は幼い頃、父の転勤で姶良郡内を幾度か転居したが、どこにいても桜島は見えた。原風景には桜島がどっしりと横たわる。

上脇は、鹿児島県立加治木高校に入り、ハンドボールに熱中した。もともと学校で一、二を争うほど足が速く、体にバネがあった。ハンドボール部の顧問の教師に勧誘され、入部する。たまたまゴールキーパーがケガをして、「おまえやれ」と言われ、「はい」と引き受けた。やってみると、これがなかなか快感を味わえた。

「ハンドボールでは、キーパーと相手チームの選手が一対一になったら間違いなく点を入れられます。そういう場面で、ああダメだなってふりをしながら、相手がシュートを放つ直前に両手両足を大きく広げて覆いかぶさるように跳んで、シュートのコースを消す。そうすると投げたボールが僕の体のどこかに当たって得点を防げます。何度も顔や急所に当たって痛かったけど、これが快感なんですよ」

少年期の上脇にとって、大正15 (1926)年生まれで戦中派の父は一種の反面教師だった。普段は無口で仕事や労働組合の活動に熱心な父が、帰宅して薩摩焼酎を飲むと荒れた。家には警察の所持許可を得て猟銃が置いてあった。

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