アントニオ猪木(猪木寛至)氏は、1989年7月の参議院議員選挙に当選する前から、頻繁にモスクワを訪れていた。88年の秋ごろのことだったと記憶している。筆者は当時、モスクワの日本大使館の政務班に勤務して半年ほどだった。政務班員に2本ずつジョージア(グルジア)産のワイン「キンズマラウリ」が配られた。スターリンが愛したという甘口の赤ワインで、モスクワではなかなか入手できないレア物だった。
「キンズマラウリじゃないですか。どこで売っていたんですか」と尋ねると、先輩が「プロレスラーのアントニオ猪木さんが持ってきた。何でもジョージア共産党の幹部からお土産に数十本ももらってしまい、日本に持って帰れないので、大使館の皆さんで飲んでもらえないか」と説明してくれた。
当時はペレストロイカ(立て直し)政策の真っただ中で、表現や政治活動の自由が大幅に認められるようになり、社会は活性化していた。しかし規律の緩みから計画経済が混乱し、物不足が深刻になっていた。国家から特別の扱いを受けていたスポーツ選手に対する処遇にソ連政府は手が回らなくなり、スポーツ団体やアスリートは生き残りのために自ら金を稼ぎ出さなければならなかった。
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