ロシアとNATO(北大西洋条約機構)加盟諸国との関係、とりわけ米国、英国、ドイツとの関係が急速に悪化している。このような中、日ロ関係は比較的平穏だ。首相官邸とクレムリン(ロシア大統領府)、日ロ両外務省が水面下で緊密に連絡を取り合い、2国間関係の悪化を防いでいるからだ。
具体的な事例について説明する。日本の新聞やテレビでは報道されていないが、ロシアが茂木敏充外相とリトアニアのガブリエリュス・ランズベルギス外相による「エルサレム・ポスト」(1月27日付、イスラエルで発行される英字紙)への共同寄稿に激しく反発した。外務省ホームページに共同寄稿が掲載されているので、その内容を検討してみよう。〈1月27日の国際ホロコースト記念日に、ホロコーストの悲劇を思い起こし、過去の厳しい時代に人々の命を救うために職責を超えてリスクをとった勇気ある方々に対して心からの敬意を表します。その中に、数千人のユダヤ人が欧州から逃れることを支援した日本人外交官、杉原千畝氏(「Sempo」としても知られています)がいます〉。この寄稿は、杉原千畝氏が外務本省の指示に反してユダヤ人に日本の通過査証(「命のビザ」)を発給した出来事を扱っている。〈1939年の秋、当時ナチスとソ連に占領されていたポーランドから約3万5千人の難民が、リトアニアに安全を求めて逃れてきていました。多くの家族、子供、老人、学生、そして様々な職業や宗教の人々がいました。彼らの多くは、身元証明の書類や生活費を持たないまま故郷を離れてリトアニアにたどり着き、保護を受けていました。(中略)杉原千畝氏は、1939年にカウナスで日本人外交官として働き始めて間もなく、難民たちがカウナスに到着する姿を目撃したのです。/1940年の夏、多くの欧州諸国がナチスやソ連に占領されていたのと同じように、リトアニアはソ連に占領されました。リトアニアのユダヤ人難民は避難場所を探しており、多くの人がビザを入手できることを期待してカウナスの日本領事館に集まりました。その多くはビザ発給の要件を満たしていませんでしたが、人道的な危機に直面し、杉原千畝氏は、後に「命のビザ」と呼ばれるビザを発給するという勇気ある決定を行いました。杉原千畝氏がリトアニアで勤務した最後の数週間に、2100件以上のビザが発給されました。これらのビザによって、難民たちは日本へ渡航・通過することができ、多くの命が救われたのです〉。
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