
「すごいね、と言っていただくのですが、19校に出願して、6校に合格、実は13校は不合格だったのです。米国の大学は、本当に優秀な人たちが受験に挑んでくる。大学が求める最低ラインを超えた先は、本当に受験生と大学とのマッチングで選んでいると感じました。優秀な受験生たちと戦うために、オリジナルの戦い方を研究し、ものすごく努力をしても13校からは不合格通知が届いたのです。ですので、3月末にUCバークレーから合格通知が届いたときには、本当にうれしかったですね。UCバークレーの合格者説明会にも喜々として参加していました。スタンフォードの合格は、やはり難しいと思っていましたし、UCバークレーに通うつもりだったんです。それが4月に入ってから、なんとスタンフォードから合格通知が届いた。ウェブで紙吹雪が飛び交う合格画面を見たときは、もう放心状態でしたね。驚きすぎて『とんでもないこと、してもうた』とつぶやいたほどです(笑)」
「地方女子」でも「海外大学」に行ける!
加えて、松本さんの道のりには、首都圏の高校生とは異なる、地方なりのハンディもあったはずだ。それを松本さんはどのようにはね返し、克服していったのだろうか。
当初、米国の名門大学を目指すと宣言したとき、松本さんは周囲のほとんどから反対された。そこで周りを納得させるためにも、進路の選択肢については、プランDまで用意した。米国の大学進学が、たった一つの望みではなかったのだ。
「もしダメなら、ほかの選択肢もある、研究もどこでだってできる」。
そう思っていたという。
同一線上に、さまざまな選択肢があった。その中には、すべての大学に落ちた場合は、吉本興業に入って芸人を目指すという選択肢もあったのだという。
ダメならダメで、その結果を引き受ける。選択肢がたった一つなわけじゃない。軽やかでいて、芯の強いポジティブさが、彼女の強さのような気がした。
「受験は、失敗しても成功しても自分の責任です。どちらにしても結果を引き受けなくてはいけないのに、日本の学校教育では進路先について生徒の自主性を尊重しない傾向がある気がしました。実際、私も興味がないのにほかの進路を強制されそうになったことがあります。でも、どんな進路の選択をしようが、本来それを実行してリスクを取るのは本人なんですよね」
だからこそ、と松本さんは続ける。
「決断は、自分がする。後悔がないよう自分で決断したい。そう思いました。そのため、反対する周囲には選択肢を用意し、自分一人で説得して回りました。それでも反対する声も多かったですが、自分のことを理解してくれる大人たちも一定数いた。とくに高校3年生のときの担任の先生がサポートしてくれたのは大きかったですね。最終的には、私が海外の大学に進学する前例をつくることで、後輩たちにも新たな可能性を示したい。そう思って、未踏の地を切り開いていきました。大変ではありましたが、新しいスタンダードをつくるようで楽しかったですね」
既存の“物差し”で戦えないなら“物差し”をつくる!
これだけ行動力がある松本さんだが、海外在住経験はなく、本格的に勉強して成績を伸ばしていこうと自覚したのは高校に入ってからなのだそうだ。また、都心の高校生が通うような留学専門の受験塾にも、学費が高くて通うことができなかった。唯一頼ったのは、ウェブで海外の大学進学を無料で支援する団体「atelier basi」のサポートだけだった。
「海外に住んだこともないし、地方から合格なんて無理。そんな声を、飽きるほど聞きました。自分自身もそんな現実を見ずに走り続けることが、いちばん大変だったのも事実です。いろんなことが大変すぎて、何が大変だったか、もう言えないくらい。現実を見ずに、ただ一人で突っ走ることは本当につらかったのです」