「桜田門外の変」で食べ物の恨みは怖いと思う訳 井伊直弼と水戸藩の「牛肉」をめぐる深い因縁

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ところが、直弼が藩主の座につくと、牛の屠畜を一切禁止してしまったのだ。直弼は、母親が側室で庶子であったことから、家督を継ぐことはないはずだった。若い頃から井伊家の菩提寺に入り、袈裟血脈を許された僧侶の資格を持っていた。

その後も「埋木舎(うもれぎのや)」と呼ばれた邸宅で、世捨て人のように暮らしていたが、兄の死により人生が一転する。それでも敬虔な仏教徒だったから、殺生を忌み嫌ったのだ。

そうすると、斉昭のもとに牛肉が届かなくなる。毎年、寒い時期になると彦根から届く牛肉の味噌漬けを楽しみにしていた斉昭。ところが、どうしたことか、その年はやって来ない。事情を知らない斉昭は、直弼に使いを出す。毎年楽しみにしていたのに、今年はやってこない。何卒お送りください、と。

すると直弼から、今年から領内の牛を殺すことを禁止いたしましたので、牛肉を差し上げられません、お断りいたします、との返事がくる。

特別扱いを申し出た斉昭

それでも諦めきれない斉昭は、再び使いを出す。領内の牛を殺すことを禁じたのであれば、しかたがないが、これまで毎年食べていることで、特に江州の牛肉は格別だから、私のためだけにでも特別に手配していただきたくお頼みします、と。つまり、特別扱いを申し出たのだ。

これを直弼が承知するはずもなかった。なんと言われようと、領内の禁止事としたので、そんなことはできない旨を伝え、「たつて御断り申し上ぐる」と厳しく断っている。

このやりとりを記録した『水戸藩党争始末』の「老公と大老の不和」と題する項目の原書は、こう結んでいる。

かくのごとく、公よりたびたび御頼みありし事を、さらに承知せざりしかば、さすがに不快に思召されしとなむ

水戸の御老公と大老の不仲は牛肉から始まっていたのだ。

記録に残るくらいだから、好物を分けてくれない相手をなじるくらいのことはしただろう。上司の吐いた言葉が部下の耳に伝わり、言葉だけが広がっていくことは、どの時代にもある。私怨がいつしか大義と入り乱れ、相手への恨みが膨れていく。それが究極の事件となる――。

そんな事情もあって、斉昭に近い諸侯は直弼のことを「愛牛先生」と呼んだ。やはり直弼から処罰を受ける福井藩主の松平慶永(春嶽)が斉昭に送った書面にも、また、土佐藩主の山内豊信が慶永に送った書簡の中にも「愛牛」の文字を見ることができる。

それだけ諸侯の間には、彦根の牛肉事情は知れ渡っていた。

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