(第10回)阿久悠の履歴書1--「昭和」の子の「戦後」のはじまり

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●戦争が与えた影響

 日中戦争開始の年に生まれた彼はまた、昭和の「戦争」の子でもあった。典型的な「小国民」世代である。
 これもまた、作詞家・阿久悠の誕生を語るのに欠かせない要素であろう。
 日本の敗戦は、彼ら小国民にとってまったく"想定外の事実"だったのだ。

 その敗北の屈辱を彼らの脳裏に刷り込ませたのが、終戦直後の教科書の「墨塗り」という"恐るべき儀式"だった。軍国主義基調を一掃し、天皇中心の皇国史観を否定するために小国民に課せられた、民主主義教育への切り替えの第一歩である。
 さらに個人的な体験として忘れがたいのが、画用紙に描きためてあった、軍国調の鮮明な自慢の絵を、父親に言われ、自宅兼の駐在所(POLICE SUBSTATION)に進駐軍がやってくる直前に、燃やしてしまったことだった。
 阿久悠にとって、この二つの出来事は、生涯のトラウマになる。

 「こんなことをさせられたら、虚無的な子どもになります。ぐれてもすねても得はないってことだけはわかってる虚無的な子どもです」(『時代の証言者(11)』)

 だがそれは、戦争の犠牲として、ただ虚無的に暗い子になるという意味ではない。
 「昭和二十年八月十五日は、ぼくにとって第二の誕生日である」(『生きっぱなしの記』)と、きっぱりと語る阿久悠は、子どもながらに虚無的な感情を抱きつつも、小国民から見事に「再生」した子どもだった。
 その蘇りとは、あらゆる価値観の転倒のなかで、虚脱状態にあった大人たちを出し抜いた、子ども自身による自力更正だったのである。

 「敗戦によって一旦アメーバーのように形を崩してしまった少年の精神性を、新たなる形に再構築していったのは、政治でも教育でもなく、子ども自身の再生力による」(同)
 

●野球、映画、流行歌が「民主主義の三色旗」

 その心の糧となったのが、野球、映画、流行歌の「民主主義の三色旗」だったと阿久悠は語る。
 深田少年、後の作詞家・阿久悠は、敗戦後の小国民の原点であるこの「民主主義の三色旗」に忠実な、優れて世代的なクリエーターだったのだ。

 「流行歌」の作詞家という天職を得たことで、最終的に彼はその初心をまっとうする。
 それ以前、淡路島・洲本高校時代に、授業をさぼって3年間でなんと1000本近い「映画」を見た成果も後々現れる。それは、阿久悠の根強い東京志向を不動のものにするとともに、後年、沢田研二の曲(『カサブランカ・ダンディ』、『勝手にしやがれ』)などの創作モチーフを提供する、作詞家にとっての豊富な引き出しになったのだ。

 三色旗のうちの残るひとつ、「野球」についてはどうか。

 赤バット(川上哲治=巨人)、青バット(大下弘=西鉄)の活躍を、ラジオや雑誌で知った世代である阿久悠は、無類の甲子園通でもあった。
 『スポーツニッポン』の夏の風物詩ともなった、「甲子園の詩」の連載は、1979年から2006年まで続いた。阿久悠はそのために、全試合をスコアブックをつけてテレビ観戦するなど、手抜きを自分に許さなかった。
 甲子園と阿久悠の結びつきでは、彼が洲本高校2年の昭和28年、兵庫県代表の同校が春の選抜で浪速商業(大阪)を下して全国優勝するという快挙があった。

 だが何と言っても、「民主主義の三色旗」が三位一体となって結実したのは、阿久悠原作『瀬戸内少年野球団』の映画化によってであろう。

 一口にそれは、野球を心の糧に「再生」する復興期の少年たちの物語なのである。「三角ベース」、「野球石器時代」、「健康ボール」といった各章のタイトルにも、作者の時代的思い入れがたっぷり刻み込まれている。
 夭折(ようせつ)の美人女優・夏目雅子が演じた駒子先生と、武女(むめ)、バラケツ、竜太(主人公の少年)ら「江坂タイガース」の面々の波瀾万丈、抱腹絶倒の物語。

 ある種の故郷喪失者であり、転校のたびに親から、友達とは「別れる時に辛くない程度に仲良くしろ」と言われたという阿久悠にとって、野球は、心の故郷への郷愁を駆り立てる特別なスポーツだったのである。
 

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