なぜ道徳科で「市民教育」をやるべきなのか

――以前から「道徳教育は本来学校でやるべきではない」とおっしゃっています。

道徳とは、ある時代やある共同体に限定された「習俗の価値」です。日本の道徳科の教科書には「こういう場合はこうするものだ」といった、世界的に見たら通用しないハイコンテクストなモラル、つまり習俗の価値がたくさん示されています。

しかし、今の社会は多様な人々で構成されており、家庭環境や文化的背景もさまざま。その中で特定のモラルを教えれば、異なる価値観を持つ者同士で対立が生まれます。だから、学校で道徳教育をやるべきではないのです。

代わりに道徳科でやるべきことは、「市民教育」です。「どんなモラルの持ち主であろうと、それが他者の自由を侵害しない限り、承認し合う(=自由の相互承認)」という根本ルールを教えるのです。まずはお互いを認め合い、自分たちで社会をつくることができる児童・生徒を育む。そのために道徳科を活用していくべきだと考えています。

もっと言うと、自由の相互承認の感度を育む教育は、道徳科だけでなく学校全体で行うべき。そもそも私は「学びの構造転換」を提唱しており、学びは「みんなで同じことを同じペースで同じようなやり方で」進めるスタイルから「個別化・協同化・プロジェクト化の融合」へと変わっていくべきだと考えています。いきなり現場を変えることは難しいですが、15年ほどあればできるはず。その取り組みの中で道徳科を生かしたいと考えています。

道徳科での「市民教育」、3つの実践法とは?

――道徳科で市民教育を実践する方法として、「哲学対話」「学校・ルールをつくり合う道徳教育」「プロジェクトとしての道徳教育」の3本柱を提案されています。

「哲学対話」は、異なる他者との間に「共通了解」を見いだす力を育みます。近年、道徳科の授業に取り入れる教員も少しずつ出てきました。

市民社会の一員になるに当たっての経験として、「学校・ルールをつくり合う道徳教育」も提案しています。これも現在、いい流れがあります。私は今、子どもたちが学校のルールを見直す「ルールメイカー育成プロジェクト」(※)に関わっていますが、オンラインで異なる学校の生徒同士が活発な対話を行っており、急速に盛り上がりを見せているのです。

※ 経済産業省「未来の教室」の実証事業の1つ。NPO法人カタリバが受託

山形県立遊佐高等学校。教員と生徒が一緒にルールメイキング
(写真:カタリバ提供)

子どもたちによる校則の見直しは全国に広がっており、すごく可能性を感じています。現状では生徒会活動の一環で行われることが多いですが、道徳科の授業と絡めて校則を考えていくことはできると思っています。

「プロジェクトとしての道徳教育」は、自分なりの問いを立て、自分なりの答えにたどり着く「探究型の学び」に取り組もうというもの。例えば、安楽死や差別問題などの社会課題を個人あるいはチームで考え、発表し、議論し、探究力を育んでいくことが大切だと考えています。

私は今後、この3つの柱に基づいた道徳教育の推進に力を入れようと思っています。学校現場では、なぜか「道徳科は1コマで1内容項目を教えるべき」「2コマ続きで道徳科をやるのは駄目」といった考え方が根強いですが、決してそんな決まりはなく、文部科学省もそのあたりは柔軟にやっていいと言っています。学校と協力して面白い実践例を積み重ね、「こんなふうにやっていいんだ」と思える意識を広げていきたいです。

児童・生徒と哲学対話を行う機会も多い苫野氏。写真は学校のルールの見直しを行っている様子

――教科化から3年が過ぎましたが、22の内容項目にやりづらさを感じている教員の声も聞こえてきます。

22の内容項目も構える必要はなく、取り扱えばいいのです。例えば、プロジェクトをやれば学びの中に内容項目はいくらでも入ってくるので、「これは社会正義」「これは生命の尊さ」など、探究した後で後付けすることもできる。

これを私は、友人の研究者の言葉を借りて「後追い型のカリキュラムの編成思想」と呼んでいます。今までは、学校や教員があらかじめ学ぶ内容を決め、そのレールに子どもを乗せていくカリキュラム編成でした。しかし、今後は道徳科に限らず、多くの学習がこの「後追い型の編成思想」を中核にしていく必要があると考えます。

子どもたちの探究活動があり、後追いで学習の意味を見いだし、「学習指導要領のこの内容ができたね」と見取っていく。例えば、長野県伊那市立伊那小学校は、40年以上生活科や総合学習を中心とした探究型のカリキュラム編成を行っていることで有名ですが、まさに「後追い型の編成思想」で教育活動を展開しています。

もちろん、学び残しがあればちゃんと補います。先生の力量が求められますが、これが自然な学習であり、とくに道徳科はやりやすい。道徳科で「後追い型の編成思想」の要領をつかめれば、ほかの探究学習もうまくできるようになると思います。その気になれば道徳科を核にした教科横断的なカリキュラムマネジメントも可能であり、学びの構造転換もできてしまうはず。そんな学校も出てくるといいなと願っています。

――新学習指導要領では探究が強調され、教科横断的なカリキュラムマネジメントも推奨されているので、道徳科を活用した市民教育はいろいろな方法で実現できそうですね。

はい。ただ、探究に大きく舵を切った学校がある一方、まったく取り組んでいない学校もあり二極化しています。また、探究を核にした教科横断型のカリキュラム編成は、学年や学校全体のコンセンサスがないとできません。カリキュラムの編成権は校長にあるので、校長のリーダーシップが重要になります。

実際、市民教育や学びの構造改革をやりたいけれど、周囲の理解が得られないという悩みはよく寄せられます。でも、いくつか手はあります。

まずは小さな対話の会から始めること。例えば、プロジェクトをやりたいなら、プロジェクト型学習を中心とした高校「High Tech High」を舞台にしたドキュメンタリー映画『Most Likely to Succeed』やイエナプランのDVDの上映会を行うなどして、「知る機会」を広げていく。これは割と草の根で広がりますよ。

もう1つ、20代などの若いうちから研究主任に立候補するのも、「こういう学びをやってみませんか」と提案しやすくなるのでお勧めです。

憲法や民主主義の本質も教える授業を

――道徳科の好事例や課題についてお聞かせください。

哲学対話は広がりつつあります。私のゼミの卒業生ですが、まだ3年目ながらプロジェクトやルールづくりを盛り込んだ道徳科の授業に取り組む小学校の先生などもいます。

苫野氏のゼミ卒業生、堀晃翔氏の道徳科の授業風景。「ルールはいったい何のためにあるのか」について、小学5・6年生が異年齢グループで考えてプレゼンテーションを作成
(写真:大分県竹田市立菅生小学校教諭の堀晃翔氏提供)

一方で、教科書を使う授業も変えたいですし、教科書そのものも抜本的に変える必要があるでしょう。例えば、哲学対話やプロジェクトを盛り込み、憲法や民主主義の本質などもしっかり教えるようにするべきではと思っています。

今、「憲法は国民から国家権力へあてたもの」だということを知らない若者があまりにも多い。憲法や民主主義は、人類の英知です。つい最近まで人種や宗教が違う人間は殺して当然という時代でしたが、この2~3世紀の間に精神の大革命が起こり、私たちは今、かつてに比べれば信じられないような時代に生きています。

このすごさをもっと教材化するといいと思うのです。私はよく「もし前の時代に戻りたくないなら、自由の相互承認を進めていく必要があり、その担い手は君たちだ」と、若者や子どもたちに熱く語っていますが、そうやって人類の歴史とともに説明するとちゃんと彼らの心に突き刺さります。

中学3年生くらいなら、「多様で異質な人たちが共に生きるとはどういうことか」ということまで考えてほしいですね。この問いから「人類は1万年かけて自由の相互承認にたどり着いたがどう思うか」「今、世界的に民主主義の危機が指摘されているが、君たちはどうするか」など、かなり高度な探究や「考えて議論する道徳」ができるでしょう。当然、いくつもの内容項目もクリアできるはずです。

この流れで憲法も扱うのです。国家権力が非常に恐ろしいことも歴史が物語っていますが、私たちの権利や自由を守るためにその国家権力を縛るものが憲法。憲法の精神は、国民1人ひとりがしっかり守って生かしていかなければいけない。日本はそういった国民主権の大切さや市民社会の担い手である意識を教育してこなかったと思うし、日本のいろいろな問題はここに集約されている気がします。

憲法と民主主義の本質を子どもの心に突き刺さるように教材化し、それを基に議論する道徳科はつくれると思います。

――今の教育現場に伝えたいことはありますか。

自分たちにできることがたくさんあるということを知ってほしいですね。SNSで「#教師のバトン」プロジェクトが炎上しましたが、本来は学校単位で考えるべき内容のツイートもたくさんありました。

例えば、残業や土日出勤の問題は校長に言うべきだし、自分たちもタイムマネジメントについて考えるべきことがたくさんあるはず。国や行政が形式的にできる整備には限界があり、最後は現場なのです。ネット上で匿名だと威勢がいいのに、当事者として声を上げない点は大きな問題ではないでしょうか。

自由や多様性の相互承認の感度を育むのが学校なので、原理的にも先生はもっと自由でいい。意見も服装も髪型も自分らしく表現すればいいのです。そのためには、対話の文化が必要です。安心して気軽にものが言えて助け合える職場をつくれば、学校は活性化して授業もいろいろなチャレンジができます。そうでないと空気を読み自縄自縛に陥ってしまう。管理職や教育委員会は先生たちの自由を守り、過度な指示は控えてしっかり支え、対話の文化をつくること。そんな現場に変わっていってほしいと思います。

苫野一徳(とまの・いっとく)
哲学者、教育学者。熊本大学教育学部准教授。『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『ほんとうの道徳』(トランスビュー)など著書多数

(文:編集チーム 佐藤ちひろ、注記のない写真は苫野一徳氏提供)