何が"去り際の宰相"を突き動かすのか? 石破首相が《復活》に執念を燃やす「ある国会議事録」の正体

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そして、1940年2月2日。斎藤は衆院本会議場に登壇。米内光政首相(当時)らに対して「支那事変処理を中心とした質問」を始めた。冒頭は「支那事変はどうなるのか、国民はこの議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もいない」などと、穏やかな調子で始まった。

そして、次第に追及のトーンが上がっていく。

「十万の将兵は戦場に屍を埋めているでありましょう。これに幾倍する数十万の将兵は、いたましき戦傷に苦しんでいるでありましょう」「軍費については一厘一毛といえども支那からとることはできない。ことごとく日本国民の負担となる。日本国民の将来を苦しめるに相違ない」

「犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない」

演説の中盤では政府批判が強まる。

「例えば国民精神総動員なるものがあります。ずいぶん巨額の費用を投じているのでありますが、一体これは何をなしているのか私どもにはわからない」「国民に向かって緊張せよ、忍耐せよと迫る。国民は緊張するに相違ない。忍耐するに相違ない。しかしながら国民に向かって犠牲を要求するばかりが政府の能事(のうじ=成し遂げるべきこと)ではない」

斎藤は言論統制にも言及する。

「事変以来、わが国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭って国民的意思、国民的感情も披歴することが出来ない」

最後に斎藤はこう結んでいる。

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