大学で求められる「書く力」とは?
大学での職を退いた今、一番懐かしく感じるのは、学生と一緒に研究をするときのわくわく感である。とりわけ、卒業論文、修士論文、博士論文という学位論文に取り組む学生たちとのやり取りは、ほかの場面では味わえない魅惑的な時間であった。
なんといっても、それは、学問が創造的な営みだからである。学術論文は、誰も発表していない“新しい発見”を示し、公表したものをいう。誰かがどこかで書いている事柄を改めて書き表したものは論文とはいえない。
学部のゼミでは、学生たちがよく「世の中にこんなにたくさんの本や論文があるのに、20年と少ししか生きていない自分に新しいことなど言えません」と言っていた。しかし、卒業論文であっても、すでに誰かが同じ問いで答えを出していないかを確認してから取り掛かるように指導してきた。問いが同じであっても、研究対象や分析方法が異なれば、それは新しい発見になる。
誰かが問いを立てて追究し、その答えを発表する。さらに別の誰かが、その問いに何かを付け加えたり新しい問いを立てたりして追究し結果を発表する――この繰り返しにより、人類の知識が蓄積されてきた。学問とは、それまでの発見を踏まえて、人類全体の知識を前に進めていくものである。
大学は、学問をするところだ。いわば、新しい知識を人類にもたらすための訓練をする場である。1年生から3年生までの間にたくさんのレポートを書き、4年生で集大成としての卒業論文を書く。レポートにおいては、主張の新規性を証明するところまでを求められることはまれであるが、大学での文章作成には新しいアイディア、すなわち独創的な着想が求められる。
AIに頼って「正しい答え」を書こうとする学生たち
2022年に生成AI(以下、AI)の「ChatGPT」が出現してからは、社会全体における文章作成が様変わりした。企業では、いかにAIを使って仕事を効率よく進めるかが課題であろう。今年3月に卒業したゼミ生が「新入社員の研修ですごく時間をかけてAIの使い方が指導された。大学とあまりに違っていて驚いた」と言っていた。

早稲田大学名誉教授
専門は国語教育、特に文章作成の指導と評価。1998年イリノイ大学アバナシャンペーン校Ph.D.。1998-2002年国立国語研究所非常勤講師。2002-2025年早稲田大学、アジア太平洋研究科、国際教養学部、留学センターを経て国際学術院教授。著書に『これから研究を書くひとのためのガイドブック第2版』(共著、ひつじ書房)、『法を学ぶ人のための文章作法第2版』(共著、有斐閣)など
(写真:本人提供)
大学においても、「AIで文章を書いてはいけない」という時代はもう終わったと感じる。アメリカの某有名大学で、レポートの評価でA+やAを取る学生とBを取る学生を比較したところ、次のような違いがあったと聞く。
Bを取る学生は、与えられたレポート課題をプロンプト(指示文)にしてAIに文章を書かせて提出する。しかし、AやA+を取る学生は、まずはAIに書かせ、その文章を批判する論点を自分の頭で考えて盛り込むのだそうだ。
つまり大学生は、どんなにAIが発達したとしても、やはり自分の頭でよく考えて書くことが求められるということであろう。レポートや論文の執筆において、これまでと同様、独創性をもって、先行する情報の内容を超えることが求められるのである。
しかし、文章には答えがあると信じている学生は多い。AIに頼って「正しい答え」を書こうとする。筆者が16年にわたり担当してきた全学の1年生向けアカデミック・ライティング授業では、毎週、短い文章を書く宿題が出される。ほぼすべての学生がパソコンや携帯電話を持つようになった頃から、約1500人の履修者のうちの何十人もが同じ論点で文章を書いてくるようになった。
インターネット検索やAIを活用して書いているのだろう。複数のサイトから少しずつ文章を取ってパッチワークのようにつなぎ合わせた文章を提出する学生も少なからずいた。また、学生が示した参考文献に飛ぼうとしても、参考文献そのものが存在しない場合もあった。AIが示したものであろう。
こうした学生は呼び出して、「それは他人のアイディアを断りなしに盗む行為。剽窃をしてはいけない」と注意する。しかし、剽窃もさることながら、「自分の考えを持つ」「自分なりに考える」ことを放棄している態度は問題である。
体験から出発して“自分事”として書く
学生には、本気で社会や自分についての考えを練ってほしい。小学校、中学校、高等学校でもいえることである。
社会が今どのようになっているのか、現在の姿になるまでどのような経緯があったのか、社会を構成する誰にとってその問題は重要かなど、「社会を見る目」を培ってほしい。また、自分はどのようなことに興味があるか、自分のどの点をさらに磨きたいか、自分が他者に貢献できるところはどこかなど、「自分を見る目」を培ってほしい。
さらに、両者が交差する点を見極められたらよい。自分は社会のこの点を変えたい、自分はこの点で社会に貢献したいという意思を持つ。“自分事”として社会や自分を見る目を持ち、社会と自分の関わり方についての考えを持って初めて、学生たちは志を立てて社会へと羽ばたくことができるだろう。
ゼミ生には、卒業論文の全章を書き上げた後で「はしがき」を書かせている。あるゼミ生は、「知識を活用する」という教育内容について日本とスウェーデンを比較する研究を行い、「はしがき」に次のように書いた。
「高校までは定期テストや入試に必要な知識をとにかく詰め込むことに注力した。しかし、ありったけの知識を詰め込んで大学に入った先に待っていたのは答えのない中で正解を見つける難しさだった。求められているのは知識ではなく、その知識を基に自分はどう考えるかだった。(中略)現在、日本は思考力・表現力を養うことを教育における大きなテーマとしている。私が自分なりに解釈すれば、この思考力や表現力を習得する究極の目的は、自分のやりたいことを納得いくまで考え、実行することにあるのではないかと思う。自身のテーマを持って研究に取り組むという経験は自分の人生において重要なものであった」
この記述からは、自分の経験から問いを設定し、それを本気で追ったときに重要な気づきを得られたという喜びが伝わってくる。
学校では「体験・言葉・伝え方」をつなぎ合わせた指導を
人は、“自分事”として文章を書くことで「社会を見る」「自分を見つめる」ことができるようになる。だからこそ、児童生徒や学生には、1回ごとの文章執筆に、“自分事”として書くことに挑戦してほしい。「こんなことを書いていれば、合格点が与えられるだろう」ではなく、「自分が経験したあの視点から書いてみよう」「自分にしか語れないあの体験を基にして書いてみよう」と取り組んでほしい。
それまでの体験から自分が何を感じたかを振り返り、表現する言葉を探すことを出発点にすることで、文章には独自性が生まれる。日頃の友人との会話から感じた疑問、報道から覚えた違和感、自分が持ち続けているこだわり、こうした個の想いや意見を基にして文章を発想してよいのだと、児童生徒や学生には伝えたい。そうして初めてAIの作る文章を超える論点や視点が示せるはずである。
そのためにも、学校現場では、感受性を培う教育を大切にしたい。人は、体験を通して、言葉にならない感動や憤りや願いを持つ。豊かな体験があるとき、人は内面にあるものをどう表現できるかに挑戦できる。
教室では、言葉を獲得する過程を助けたい。新しい言葉を知って初めて自分の内面にあるものに気づくということもある。体験と言葉の往還は、教科や学年を超えて大切にできる指導事項である。
意見文や論説文を書く領域においては、「客観的な理由を述べる」「数字などのデータで証明する」という指導事項がある。これらは「個の想いや意見を基にして文章を発想する」という原則と矛盾するものではない。体験談そのものを書かずとも、固有の体験を基に発想した主張や理由は、説得力を生む。その時に読み手を説得するための技法は多く知っていたほうがよい。小・中・高・大学を通して、「体験」「言葉」「伝え方」をつなぎ合わせた指導をらせん状に行いたい。
体験を「聴き合う」教室や家庭が固有の論点や視点を育む
筆者は、アメリカで博士論文の執筆をしているとき、大学の「ライティング・センター」の常連だった。文章を改善する方法をマン・ツー・マンで一緒に考えてくれる施設である。日本にもあったらよいと思い、2004年に早稲田大学で日本初のライティング・センターを設立した。
ここでは、学生・大学院生・教員を対象に、日本語・英語どちらの文章も検討できるようにした。文章を持って訪れると、訓練を受けた大学院生の文章指導者が一対一で対話をしながら、改善方法を一緒に検討してくれる。まだ書き出していなくとも相談できる。
文章指導者は、文章の背後にある書き手の想いを引き出していく。「~と書くとよいですよ」と書き方を先導するのではなく、「あなたが、この文章で一番訴えたいことは何ですか」「同じような意味で〇〇と△△が使われていますが、2つの語は違う事柄を指していますか」などと質問をし、書き手が自ら文章の問題点や修正方法に気づくようにする。
例えば、商学部学生がレポートを持って来室したとする。
このように、文章指導者の問いかけにより、来訪者は自ら改善点に気づいていく。来訪者たちは、「ここに来ると、自分の考えがだんだん明確になる」と話す。私たちは、自分のうちにある想いや意見を、そう簡単には文章に綴ることができないのであり、他者との対話に助けられて自分の考えをより明確にしたり修正したりできるようになるのである。
そのため、文章指導者の研修では「聴くこと」を練習する。これは教員や保護者にも意識してほしい視点だ。教室や家庭において、教員と学習者、親と子ども、あるいは学習者同士が、互いの体験を「聴き合う」ことを大切にしたい。
「どんなことがあったの?」「そんなこと感じたんだ」という対話は、書き手固有の論点や視点を育む。そのような「聴き合う」教室や家庭が、“自分事”として文章を書くマインドを作っていくのである。社会や自分を見る目を育て、志をもって社会へと羽ばたく子どもたちを育てたい。
(注記のない写真:Fast&Slow/PIXTA)