エストニアとの面倒な交渉を終えて筆者は1991年9月最終週にモスクワに戻った。これでリトアニア、ラトビアだけでなくエストニアとも新規に外交関係を樹立したという説明を日本ができる態勢が整ったので、ほっと一息つくことができた。
1週間ぶりに大使館3階の政務班の机に座ると、メモが十数枚、置かれていた。「アレクセイ・ニコラエヴィッチ・イリインという人が、『ここに電話をしてくれれば連絡がつく』」と書いたメモが1枚、「イリインさんから電話があった」というメモが2枚あった。
ロシア共産党第2書記だったイリイン氏からのメッセージだ。「逮捕されず、無事だったのか」と筆者はほっとした。ソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件からまだ1カ月半も経っていないのに、イリイン氏から8月20日昼すぎに「ゴルバチョフは生きている」との情報を聞いたのが10年以上前のように思えた。それだけクーデター失敗後の歴史が、激しいスピードで変化していた。筆者も歴史の渦にのみ込まれていた。
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