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「国というものは善いとか悪いとかでは測れない」 佐藤優の情報術・91年ソ連クーデター事件簿61

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筆者は、ソ連人民代議員のヴィクトル・アルクスニス氏に、母の話を続けた。

──おそらく(1945年)6月22日未明のことだ。(沖縄本島南端の)摩文仁(まぶに)の浜には1カ所だけ井戸があった。母がそこで水をくんでいるときに、2人の下士官と会った。2人は母に「われわれは(沖縄防衛を担当した第32軍の)牛島(満)司令官と長(勇)参謀長にお仕えしていた。司令官と参謀長はこれから自決するので、戦争はこれで終わる」と伝えた。

「降伏してもいいと伝えたのか」

──そうじゃない。当時は玉砕するのが当たり前だった。母たちは沖縄本島北部にいかだで逃げ出すことを考えていた。北部の密林地帯でゲリラ戦を展開することを考えていた。しかし海上は米軍の艦船でいっぱいだ。いかだで北部に渡ることなど不可能だった。

戦場では運が生死を分ける

「それでお母さんたちはどうしたんだ。指揮官はいたのか」

──もはやいなかった。母が所属していた石部隊(陸軍第62師団)の兵士は1人もおらず、山部隊(陸軍第24師団)の下士官と兵が一緒だったという。用便や水くみでガマ(洞穴)から離れたとき、米兵に見つかったらその場で自決するか、ガマに戻らず別の場所に行くと申し合わせていた。

7月に入って、母たちは米兵に発見された。用便に行った日本兵が、米軍に発見されたのにガマに戻ってきてしまった。米兵は2人で、1人が自動小銃を持ち、もう1人は武器を持たない通訳兵だった。通訳兵がなまりの強い日本語で「スグニ、デテキナサイ。テヲアゲテ、デテキナサイ」と投降を呼びかけた。

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