筆者は、ソ連人民代議員のヴィクトル・アルクスニス氏に、母の話を続けた。
──おそらく(1945年)6月22日未明のことだ。(沖縄本島南端の)摩文仁(まぶに)の浜には1カ所だけ井戸があった。母がそこで水をくんでいるときに、2人の下士官と会った。2人は母に「われわれは(沖縄防衛を担当した第32軍の)牛島(満)司令官と長(勇)参謀長にお仕えしていた。司令官と参謀長はこれから自決するので、戦争はこれで終わる」と伝えた。
「降伏してもいいと伝えたのか」
──そうじゃない。当時は玉砕するのが当たり前だった。母たちは沖縄本島北部にいかだで逃げ出すことを考えていた。北部の密林地帯でゲリラ戦を展開することを考えていた。しかし海上は米軍の艦船でいっぱいだ。いかだで北部に渡ることなど不可能だった。
戦場では運が生死を分ける
「それでお母さんたちはどうしたんだ。指揮官はいたのか」
──もはやいなかった。母が所属していた石部隊(陸軍第62師団)の兵士は1人もおらず、山部隊(陸軍第24師団)の下士官と兵が一緒だったという。用便や水くみでガマ(洞穴)から離れたとき、米兵に見つかったらその場で自決するか、ガマに戻らず別の場所に行くと申し合わせていた。
7月に入って、母たちは米兵に発見された。用便に行った日本兵が、米軍に発見されたのにガマに戻ってきてしまった。米兵は2人で、1人が自動小銃を持ち、もう1人は武器を持たない通訳兵だった。通訳兵がなまりの強い日本語で「スグニ、デテキナサイ。テヲアゲテ、デテキナサイ」と投降を呼びかけた。
この記事は有料会員限定です。
東洋経済オンライン有料会員にご登録頂くと、週刊東洋経済のバックナンバーやオリジナル記事などが読み放題でご利用頂けます。
- 週刊東洋経済のバックナンバー(PDF版)約1,000冊が読み放題
- 東洋経済のオリジナル記事1,000本以上が読み放題
- おすすめ情報をメルマガでお届け
- 限定セミナーにご招待
無料会員登録はこちら
ログインはこちら