「嫌われた世界史」は生まれ変われるのか
2022年度から必履修科目となった「歴史総合」。その特徴は知識よりも思考力を重視することにあるが、これまでと大きく異なる点は、生徒が授業で近現代の日本史と世界史を統合的に学習することにある。文字どおり、国内外の歴史を合わせて総合的に学ぶわけだが、なぜ今、新科目が必要となったのか。23年6月刊行の『歴史総合を学ぶ③世界史とは何か:「歴史実践」のために』など岩波新書の『シリーズ歴史総合を学ぶ』の執筆者でもある世界史教員の小川幸司氏はこう語る。
「議論の発端は、いわゆる世界史未履修問題です。世界史は1989年の学習指導要領改訂で必履修科目になりました。当時の問題意識は、グローバル化の時代に対応できる若者を育成するというものです。しかし生徒側も教員側も、世界史は覚えることが膨大で学びにくい科目という認識があり、進学校を中心に世界史は『やったことにして』、日本史や地理を重点的に学ぶという事例が続発したのです」
一方で、東京都や神奈川県では必履修科目に選ばれなかった日本史が独自に必修化されたり、地理も必修にしようという声が高まったりするなどの動きが出始める。そして2011年、歴史研究者からなる日本学術会議の史学委員会にて、日本史と世界史を合わせて近現代史を中心に学ぶべきだという議論が起こった。並行して、中教審の初等中等教育分科会でも歴史教育のあり方が検討された結果、歴史については「歴史総合」、地理は「地理総合」、そして「現代社会」を引き継いだ「公共」の3つを必履修科目にすることが16年に打ち出されたのだ。
「世界史は日本史を除いた、いわば外国史です。高校生にとって本来、世界のことがわかる魅力的な科目なのですが、年々歴史研究が進み、覚えるべき知識が増え、入試も難問化していきました。歴史総合は、改めて基礎的な歴史学習とは何かを考える中で生まれたのです」
こうして22年度に必履修化された歴史総合は、これまでの教授内容重視(コンテンツベース)から、資質・能力重視(コンピテンシーベース)の授業へ生まれ変わったのだが、具体的に歴史総合が求める資質・能力は何を指すのだろう。
高等学校学習指導要領では、
(2)近現代の歴史の変化に関わる事象の意味や意義・特色などを、多面的・多角的に考察する力、歴史に見られる課題について解決を視野に入れて構想する力、歴史について議論する力
(3)近現代の歴史について、よりよい社会の実現を視野に課題を主体的に追究する態度
とされている。これらについて小川氏の解釈は以下のとおりだ。
(2)ローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルの4つの空間スケールで歴史を多層的に実証・解釈・批評する力
(3)多様な歴史主体に着目しつつ、政治・経済・社会・文化の構造を捉えるような、「アリの目」「鳥の目」の両方で歴史を考察する力。
(4)歴史について考察したことを他者と対話し、自分自身の考え方の問い直しをする力
小川氏自身も学習指導要領作成に協力し、新科目の「歴史総合」には可能性を感じているが、一方で課題感も持っているという。
過積載は危機的状況、教科書会社もいまだ対応は不十分
「現状の歴史総合の教科書は、従来の日本史と世界史の近現代の記述を交互に掲載するだけで相互のつながりが薄く、依然として歴史用語の過積載の習性が抜けていません。『世界はこうであり日本ではこうだった』という並列の記述にとどまっており、『総合』とは言えません」
授業もすんなりと進んでいるわけではないようだ。
「いちばん問題なのが、近現代史の記述内容があまり精選されていないところに、コンピテンシーベースを実現するための資料や問いが重ねられ、教科書の分量がかえって多くなっていることです。教員側も、これでは到底1年で授業を終えることができないと頭を抱えています。教科書は世界史の研究者たちと日本史の研究者たちの共同執筆によって書かれるので、自分の専門分野ではせめてこれくらいは学んでほしいと、どうしても多めに書かれてしまいます。しかし、今後教科書は本文の歴史用語を抑制し、日本列島史と外国史のつながりや比較を明確にするような叙述の再構成が必要だと私は考えます。そして、各国史の集積だけにせず、グローバルな見取り図をレイヤーのように重ねるような工夫が大切になるでしょう」
ちなみに欧米の歴史教育は自国の歴史が中心であり、外国史は自国とつながりがある範囲内のみを学ぶケースが多いという。日本は明治維新をはじめ戦後も外国から学ぼうとする姿勢を取っていただけに、外国史の研究者が多い。これだけ広範囲の外国史を高校生に学ばせている国は世界で見ても独特なのだそうだ。とはいえ、課題は分量だけではない。
「歴史総合は、とくに思考力と主体性の観点から成績をつけるのが難しい。現状、教科書には問いが掲載されていますが、その答えは本文を読めばわかってしまいます。これでは、教科書の読み取り能力を問うているにすぎません。言うなれば国語力の問題です。そこからもう一歩踏み出すには、例えば、『フランス革命やアメリカ独立革命と明治維新は何が共通していて何が違ったのか』といった問いを立てる必要があります。しかし、こうした問いに対応するには資料集めをはじめ準備に相当な時間がかかります。”考える歴史”に転換するには、教員の力量も必要なのです」
教員と生徒は共に「対等な探究者(歴史実践者)」となる
”考える歴史”の魅力について小川氏は、ファクトをつないで因果関係を自分で解釈したり、その意義づけをしたりすることができる市民を育てることになると言う。
例えば、「近代化」の過程で欧米や日本では旧体制が打倒され、自由の理念が重視されて立憲主義に移行したが、同時に植民地の人々や奴隷の自由を認めない人種主義が広がった。物事を単純な善悪や進歩のプロセスで捉えるのではなく、さまざまなファクトに目を配り、そこから多面的で相互につながっている歴史の姿を繊細に見ていくと、これをどう解釈して、どう意義づけるかはとてもスリリングなテーマになる。そして、この歴史が自分にとってどのような意味を持っているのかを考えると切実さが増してくる。こうした授業を実現させるには、中学校の社会科との連携も必要だ。小川氏が言う。
「歴史の流れを大きく把握することや、対話をしながら学ぶことについては、これまで中学校の歴史教育が努力してきたことです。そうであれば、むしろ高校の教員が、中学校の教育手法に学ぶところも大きいのでは。ただし、中学の社会科歴史分野は圧倒的に日本史中心で世界史の流れがほとんど見えてきません。真の「総合」とは何か。中学でどこまで考えて、どこから先を高校で考えるべきかを今後、高校も中学も共に考えていくべきでしょう」
そして、世間が注目しているであろう大学入試問題との連携は、現在どのような方向に向かっているのだろうか。
「重箱の隅をつつくような悪問をなくしていくことは、大学側も共通認識として持っているはずです。大学共通テストの出題も、歴史を単なる暗記ではなく、資料を基に知識を活用し、多面的・多角的に歴史を読み解いていく方向に変わり始めています。ただ、思考力を問う問題や採点は、受験生にとっても大学にとっても大きな負担です。少子化が進む今、大学入試は学生を落とすものから、より能力を引き出すものへと変化が求められています。これからの出題は、大学側でも試行錯誤が続くでしょう」
まだ始まったばかりであるがゆえに可能性も課題もある歴史総合。今後、課題を解決しながら前進するポイントは何か。小川氏はこう指摘した。
「第1は、現場の教員が過積載の教科書を精選して歴史の大きな流れを大切にすること。第2に、大学入試において、知識偏重の出題がなされないように高校と大学でもっと議論すること。第3は、考える歴史に転換するために、『考える授業』について教員間での交流や事例集めをするということです。そのうえで教員は生徒を『対等な探究者(歴史実践者)』としてリスペクトし、教員と生徒が共に正解のない歴史の課題を考えるという意識を持つべきでしょう。歴史について考え対話をするときに、生徒の思考から学ぶことが、私はしょっちゅうあります。私たち教員にとって、歴史総合はやりがいのある仕事なのです」
(文:國貞 文隆、編集部 田堂友香子、注記のない写真:Mai / PIXTA)