学校の当たり前に風穴、めがね旦那先生「教育観のアップデート」に必要な視点 なぜおかしいと思っていても変えられないのか

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今は「マイノリティーをマジョリティーに寄せていく」教育

しかし、実際に公立学校の教員になってみて、自分がマイノリティーであることを自覚したという。

「それまで僕にとって学校といえばきのくにでしたから、公立の学校で働き始めてからは、エジソンみたいに『なんでこんなことするの?』『なんで?』とよく聞いていました。管理職は相当手を焼いていたと思います。例えば、絵や習字の掲示。僕自身が絵も字も得意でなかったこともあり、なんでわざわざ張り出すんだろうと」

自分が育った学校とはまったく異なる環境の中で、「なんで?」という疑問が繰り返し湧いてくる。しかし、めがね先生は教員になって数年間は「学校の当たり前」を目指していたという。

「周りが持っている『当たり前』が自分には通じなかったために、自分はマイノリティー、少数派だという負い目があったんでしょうね。『当たり前』をいっぱい吸収して、ちゃんとしていると思われるような先生になろうとしていました」

初めて赴任した学校では、単学級を受け持った。そのため、ほかのクラスを参考にしたり、同じ学年の先輩教員の指導もないまま、一人で奮闘するほかなかった。だから新人ながらに「自分で考えて試し、検証してうまくいかなかった点を修正する」というように試行錯誤をしながらPDCAサイクルをぐるぐる回し続けた。

「その後、特別支援教育に関わったのも、僕の教育観が形成されるうえでは大きかったと思います。『マイノリティーの子をいかにマジョリティーになじませるか』ではなく、マジョリティーの線路を離れてもその子が生きていけるような支援をしたいと思いました。今の教育は、マイノリティーをマジョリティーに寄せていく教育です。でも、それは多様性を認める教育かというとそうとは言えないですよね。僕自身がマイノリティーだったので、クラスになじめない子のほうに意識が行きやすいのでしょう。でも、そうするとマジョリティーの子が『先生は自分を見ていない』と感じてしまう。だから、全員がマイノリティーだと捉えてみる。すると、全員を大事にすることができるんです」

「学校は正解を与える場所」という思い込み

そんな教育観を持っためがね先生が変えた「学校の当たり前」の一つが、授業中のトイレ問題だ。「トイレは休み時間に済ませておく」というルールをやめ、行きたくなったときはトイレに行けるようにした。

「そもそも授業中にトイレもお茶を飲むのもダメということに違和感を感じていたんです。子どもは短い休み時間に教室の移動もトイレも水分補給もしなくてはいけないけど、遊びたい子もいます。もっと休み時間を大事にしてほしいなと思ったのです」

ほかにも、めがね先生のクラスでは授業中に水分補給をしてもいいのはもちろん、朝の会はしない、授業開始の「礼」はしない、黒板の内容をノートに写す必要がない、チャイムがなれば必ず授業を終わらせる、先生が声を張り上げて指導をしないなどの実践を行っている。

これまで当たり前とされてきたことを変える。どんな組織にあっても、なかなか実行しづらいことだ。そこに葛藤や不安はまったくなかったのだろうか。

「もちろん最初は勇気が要りました。でも、実際に『トイレOK』にしてみたら、何も困らなかった。当時は単学級の学校で教えていたので、学年の縛りがなかったせいもあるかもしれません。ただ、単学級でなくても、ほかのクラスのことって先生同士も意外と知らないので、やろうと思えばできるんですよね。前に若い先生に『朝の会が長引いてしまう』と相談されて、『やめちゃえば?』と答えたんです。すると1週間後、その先生から『やめてみたけど困りませんでした!』と言われました」

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