インクルーシブ教育とは

インクルーシブ教育と聞くと、「障害のある子が一緒に学べるようにするってことでしょ?」と思われがちです。これが間違いというわけではありませんが、この定義はインクルーシブ教育の一部分であり、目的を言い当てたものではありません。

「障害」が指すものによっても変わりますが、今日の日本のほぼすべての学級には、多かれ少なかれ学習に困り感を抱えている子が在籍しています。体の弱い子、日本語が苦手な子、発達が早くて授業が退屈な子、気の合う友達がいない子、家のことを自分でしなければならない環境の子……。すべての子たちを想定すると、もはや「障害」という定義ではくくりきれないかもしれません。インクルーシブ教育の目的は、このような子たちを含む「すべての子が、自分の学びたい環境で学べる」ことです。

こういう話をすると「そんなのは無理だ、理想論だ!」と反論されることがあります。本当にそうでしょうか。もしその形を「理想」と感じられたのであれば、それこそすぐに諦めるべきではないと思います。理想に向けて考え続ける姿勢が、教育に限らず、どの分野においても必要ではないでしょうか。そしてその方法は今日、「誰かが我慢したうえで成り立つ」という根性論ではなく、最新のテクノロジーとちょっとした工夫で、すでに実現可能なのです。

困難を抱える子を教室から排除することの弊害

私は6年間普通小学校(この呼び方は好きではないですが……)で担任をした後、特別支援学校に異動しました。特別支援学級でもカバーが難しいような重度の知的障害児を対象とした学校でしたが、中にいる子は実に多様です。

ダウン症と呼ばれる、気持ちの切り替えに困難を抱えることの多い子もいれば、自閉症のようにコミュニケーションに困難のある子もいます。歩行困難な子も、耳が聞こえない子も、てんかんなどの病気でケアの必要な子も多くいました。これらの子たちが、「同じ年度に生まれたから」という理由で、同じ教室で学んでいるのが特別支援学校の現状です。認知力に関しても、発達年齢で3~4歳という開きがあります。通常学級よりも幅のある子たちを、同じ教室で教え育てる。そんな環境が、そこには当たり前に実在していました。

蓑手章吾(みのて・しょうご)
HILLOCK(ヒロック)初等部 校長
公立小学校で14年勤務した後、2021年3月に東京・世田谷にオルタナティブスクール、ヒロック初等部を創設、22年4月に開校。専門教科は国語。特別支援学校でのインクルーシブ教育や発達の系統性、学習心理学に関心を持ち、教鞭を執る傍ら大学院にも通い、人間発達プログラムで修士号を取得。特別支援2種免許を所有。プログラミング教育で全国的に有名な東京・小金井の前原小学校では、研究主任やICT主任を歴任するなどICTを活用した教育にも高い関心と経験を持つ。著書に『子どもが自ら学び出す!自由進度学習のはじめかた』(学陽書房)、共著に『before&afterでわかる!研究主任の仕事アップデート』(明治図書)、『知的障害特別支援学校のICTを活用した授業づくり』(ジアース教育新社)、『個別最適な学びを実現するICTの使い方』(学陽書房)などがある
(撮影:今井康一)

具体的な授業はとてもシンプルです。それぞれの子が、自分の今の力量や興味関心に沿った教材を、同じ教室・同じ時間に行う。それだけです。教師は子どもたちの取り組む様子を見回りながら、声かけしたりヒントを出したりと、難易度を調整します。「別々なことをするなら、一緒に学んでいる意味がないじゃないか」と言う人がいますが、そんなことはありません。子どもたちは同じ教室で、仲間の取り組んでいることや頑張りを感じ合い、時には教え合いながら、日々学んでいるのです。

これがインクルーシブ教育の意義でもあります。困難を抱える子を「一斉授業についていけない」といって教室から排除してしまうと、教室の子たちにとってはその子の存在自体を意識しなかったり、自分とは違う特別なものになったりしてしまう。多様な人がいること、多様でよいことを学べないまま大人になってしまう。それが今の私たちが抱える、分断という社会課題でもあります。

よく誤解されることの一つが、「障害がある子は成長しない」というものです。確かに、足が動くようになったり、目が見えるようになるといった機能回復が(今の医療では)見込めないことはあります。しかし認知力に関して言えば、ほとんどの子の場合は緩やかでも確実に成長します。認知の偏りにより自然な状態では力が育ちにくかったから、成長しないと誤解されている子が多くいるというのが実際です。

「すべての子は成長する」。私はそれを実証するために、教鞭を執る傍ら大学院で発達について学び、古今東西の学術的なエビデンスや経験から確信を持つことができました。

インクルーシブな学習環境を実装するには

学びをこのようにシンプルに捉えると、通常学級でも同じスタイルのほうがよいのではないかと感じるようになりました。習熟差のある子どもたちが、自分の成長に最適化できる教室。その中では、落ち着きがなかろうが、日本語が話せなかろうが、発達が早かろうが、同じ時間・空間で学べるイメージを持つことができました。

それが、拙著にもある「自由進度学習」の実践です。特別支援学校での実践を例に出すと「1学級6人程度という少人数だからできるのだろう」とよく言われます。確かに、人手が多いとそれだけ柔軟に対応できることは事実でしょう。しかし私は、普通学校でも、テクノロジーの力を借りれば十分可能だろうと考えました。AIドリルや動画教材を活用しながら、それぞれの子の進捗把握やコメント、評価を行っていく授業設計。私はこのようなインクルーシブ学習環境を実装するために、特別支援学校から再び普通学校に異動し、4年間実証を積み重ねてきました。

公立学校教員を辞した今も、ヒロック初等部という教育現場で自由進度学習を実践しています。そこには高2の数学を学ぶ子の隣で、ひらがなを読む練習をしている子がいます。どちらも互いの存在を感じながら、決してばかにすることなく、同じ仲間として実にさまざまな刺激を相互に与え合っているのです。インクルーシブ教育は夢物語でも何でもなく、現に実現できるのです。

では、みんなが必ず同じ場所で学ばなければいけないのかというと、私はそうは考えていません。その子の成長を第一に考えたとき、普通学校では十分に環境が整えられないこともあるでしょう。だからこそ、冒頭でお話ししたように、インクルーシブ教育は、その子が「自分の学びたい環境で学べる」ことが重要なのです。

特別支援学校に勤務していた頃、多くの保護者の方から「本当は普通学校で学ばせたかった」「おたくは特別支援学校に行ってくれないと困ると言われた」と痛切な声を寄せてくれました。自ら選んできたのではなく、排除されてきたという感覚を持ってしまっている。それって子どもにとっても不幸なことですよね。落ち着きがなかろうが、日本語が苦手だろうが、体が弱かろうが、大人になれば私たちは同じ社会で、支え合いながら生きていくのです。

そして、それが自分の「弱さ」や「苦手」を表出できる、誰しもが安心して暮らせる社会に直結します。そのためには、学齢期という猶予期間の中でこそ、すべての子が多様性について知り、学び、時には失敗しながら深めていく必要があると思っています。

もっと「小さな声」「声なき声」に耳を傾けてみませんか。理想論や夢物語で片付けず、ちょっとした工夫とアイデアで、まさに理想の学び場は実在しているのですから。

(注記のない写真:ペイレスイメージズ1(モデル)/ PIXTA)