「僕自身がマイノリティーだったからかもしれません」
授業の始まりには必ず「礼」をする。授業中にトイレに行ってはいけない、水も飲んではいけない。先生が黒板に書いたことは、ノートに書き写さなければならない。置き勉をしてはいけない──。
学校にはさまざまなルールや決まりごとがある。これまで学校で当たり前に行われてきたことだから、疑問に感じることもなく受け入れてきた人のほうが多いだろう。にもかかわらず、めがね旦那先生(以下、めがね先生)は「学校の当たり前」を問い直し続けている。なぜなのか。
その問いには「僕自身がマイノリティーだったからかもしれません」と答える。めがね先生は、小学校3年生から中学校3年生までをオルタナティブ教育の「きのくに子どもの村学園(以下、きのくに)」で過ごした。1992年に開設された学校で、自由な子どもに育ってほしいという願いの下、独自の教育を実践する学校だ。
「小学6年生の時に埋めたタイムカプセルに『学校の先生になっていますか』と未来の自分に問いかける手紙を入れていたんですよ。僕は、みんなで何かをする学校という空間がとても好きで。学校で働きたいという思いに迷いはありませんでした。そのためには、きのくにだけでなく一般的な学校を知らないとだめだと思いました」
そこで公立の高校に進学してみると、ギャップを感じることもあったという。一方で発見もあった。
「高校に入学した当初は、周りが幼く感じたんですよね。きのくには子どもの主体性を大事にする学校だったので、『児童生徒の成熟が早い』という刷り込みがあったのだと思います。でも、同じ高校の子と関わるうちに『そんなことはないな』と思うようになっていきました」
大学の教育学部に進むと、周囲は公立学校の教員を志望する人がほとんど。めがね先生も、自然と公立学校の教員を志すようになった。
今は「マイノリティーをマジョリティーに寄せていく」教育
しかし、実際に公立学校の教員になってみて、自分がマイノリティーであることを自覚したという。
「それまで僕にとって学校といえばきのくにでしたから、公立の学校で働き始めてからは、エジソンみたいに『なんでこんなことするの?』『なんで?』とよく聞いていました。管理職は相当手を焼いていたと思います。例えば、絵や習字の掲示。僕自身が絵も字も得意でなかったこともあり、なんでわざわざ張り出すんだろうと」
自分が育った学校とはまったく異なる環境の中で、「なんで?」という疑問が繰り返し湧いてくる。しかし、めがね先生は教員になって数年間は「学校の当たり前」を目指していたという。
「周りが持っている『当たり前』が自分には通じなかったために、自分はマイノリティー、少数派だという負い目があったんでしょうね。『当たり前』をいっぱい吸収して、ちゃんとしていると思われるような先生になろうとしていました」
初めて赴任した学校では、単学級を受け持った。そのため、ほかのクラスを参考にしたり、同じ学年の先輩教員の指導もないまま、一人で奮闘するほかなかった。だから新人ながらに「自分で考えて試し、検証してうまくいかなかった点を修正する」というように試行錯誤をしながらPDCAサイクルをぐるぐる回し続けた。
「その後、特別支援教育に関わったのも、僕の教育観が形成されるうえでは大きかったと思います。『マイノリティーの子をいかにマジョリティーになじませるか』ではなく、マジョリティーの線路を離れてもその子が生きていけるような支援をしたいと思いました。今の教育は、マイノリティーをマジョリティーに寄せていく教育です。でも、それは多様性を認める教育かというとそうとは言えないですよね。僕自身がマイノリティーだったので、クラスになじめない子のほうに意識が行きやすいのでしょう。でも、そうするとマジョリティーの子が『先生は自分を見ていない』と感じてしまう。だから、全員がマイノリティーだと捉えてみる。すると、全員を大事にすることができるんです」
「学校は正解を与える場所」という思い込み
そんな教育観を持っためがね先生が変えた「学校の当たり前」の一つが、授業中のトイレ問題だ。「トイレは休み時間に済ませておく」というルールをやめ、行きたくなったときはトイレに行けるようにした。
「そもそも授業中にトイレもお茶を飲むのもダメということに違和感を感じていたんです。子どもは短い休み時間に教室の移動もトイレも水分補給もしなくてはいけないけど、遊びたい子もいます。もっと休み時間を大事にしてほしいなと思ったのです」
ほかにも、めがね先生のクラスでは授業中に水分補給をしてもいいのはもちろん、朝の会はしない、授業開始の「礼」はしない、黒板の内容をノートに写す必要がない、チャイムがなれば必ず授業を終わらせる、先生が声を張り上げて指導をしないなどの実践を行っている。
これまで当たり前とされてきたことを変える。どんな組織にあっても、なかなか実行しづらいことだ。そこに葛藤や不安はまったくなかったのだろうか。
「もちろん最初は勇気が要りました。でも、実際に『トイレOK』にしてみたら、何も困らなかった。当時は単学級の学校で教えていたので、学年の縛りがなかったせいもあるかもしれません。ただ、単学級でなくても、ほかのクラスのことって先生同士も意外と知らないので、やろうと思えばできるんですよね。前に若い先生に『朝の会が長引いてしまう』と相談されて、『やめちゃえば?』と答えたんです。すると1週間後、その先生から『やめてみたけど困りませんでした!』と言われました」
たとえ「メリットを感じない」「時間や手間がかかりすぎる」と思っても、「それが当たり前」「学校の常識」と思えば変えられないし、やめられない。それはなぜなのか。めがね先生は、これまで学校が「正解を与える場所」だったからではないかと話す。
「例えば『今何時?』と聞いて時間を教えてもらったら、普通は『ありがとう』と返しますよね。でも学校では『正解です』と返す。先生たちも、『正解がある』『学校では正解を与える』が内在化しているんですよね。だから、『もっと子どもとやり取りして、もっと考えてみませんか』と言いたい。でも、みんなが僕みたいな先生になったらいいとはまったく思っていなくて、厳しい先生がいてもいいし、何より多様な教育が大事だと考えているんです。実際、僕のクラスでよかったという子もいれば、『先生は甘い』という保護者もいます。僕はただ、当たり前とされているけど、おかしいと思っていても変えられないということに風穴を開けたいんですよね」
教員が子どもを管理してしまう本当の理由
学校が「○○してはいけない」といった管理的教育にならざるをえない理由の一つとして、めがね先生は「学級崩壊へのおそれ」を挙げる。
「教員や学校にとって怖いのは学級崩壊です。それを防ごうとすると、どうしても管理的教育になります。許可制にすればダメなものはダメと言えますし、管理する側の予想を超えることはありません。そうした管理的教育を受けてきた子は、行動を決められ、許可されることに慣れています」
しかも、先生によってルールは異なることもある。そのため、クラス替えをしたばかりの4月、子どもたちはあらゆることを聞いてくるという。「トイレ行っていいですか?」「お茶をこぼしたので拭いていいですか?」「鼻をかんでいいですか?」などなど。
「そこで、僕は『君たちは自由だよ』と言うんです。『でも、何をしてもいいわけではない。ルールは定められないんだよ』とも言います。大声で話す自由と、静かに過ごす自由は両立しない、でもしゃべる自由は侵害できない。このように自由はルール化できないから、その都度考える必要があります。僕は今、3年生の担任なのですが、4月から言い続けていると、3学期には自分で考えるようになってくるんですよ」
ただし、子どもに自由だと言う際に、意識しておくべきことがあるという。自身の苦い経験から得た教訓をこう話す。
「『君たちは自由だよ』と言っても、先生が怖いと子どもたちは何もしなくなります。子どもが自由に過ごすには、その土台に『何かあっても先生は話を聞いてくれる』という安心感が必要。僕も厳しい先生だった時期がありまして、『君たちは自由だよ』と言っても、子どもがチラチラ僕の顔色をうかがっていることに気づき、まずは子どもの話を聞こうと思うようになりました」
子どもの笑顔のために毎日9時間していること
「子どもの反応を見て、子どもの話を聞く」。その繰り返しで教員は成長する、とめがね先生は言う。しかし、教員も人間だ。つねに冷静に何十人もの子どもたちを大事にできない瞬間もあるのではないだろうか。
「だからこそ、僕は身体感覚を意識するようにしています。以前、子どもたちに『先生に怒られるのはどんなとき?』と聞いたら、ある子が『先生がイライラしているとき!』と答えたんです。同じことをしても、怒られるときと怒られないときがあって、先生がイライラしているときは怒られると。それはそうだなと思いました。睡眠不足や二日酔いはパフォーマンスに影響する。それ以来、9時間くらい寝るようにしたら、ご機嫌でいられるようになりました。先生がニコニコしていると子どもも自然とそうなるんですよね」
めがね先生のクラスには、前年度に不登校だった児童がいたが、今は学校に通っているという。「子どもを変えようとするより、自分の体調と機嫌を重視するほうが近道だ」と、めがね先生は話す。一人ひとり違う子どもに決して一律の答えはなく、伸びる子どもを支える方法は個別支援しかないと考えているからだ。
だが、「おかしい」と思っても変えられないこともたくさんある。その1つが「宿題」だ。最近では、校長の強力なリーダーシップで「宿題を廃止した」という学校も出てきているが、学内外からの反発や多くの調整を経て初めて実現することなのだろう。
「公立学校で教育をする以上、制限はあります。また保護者は、僕らを信頼して子どもを預けてくれるわけですから、保護者の支援なしに教育はできません。僕自身は、本当は宿題をなくしたい。でも保護者から『宿題がないと学力が落ちるのでは』と言われることがあります。そんなときは、宿題をなくすのではなく、量を自分で決めることができるように子どもの自己裁量の割合を増やすとか、折衷案を出すようにしています。保護者、子ども、自分といろんな方向にベクトルを向けてバランスを取ることも大切ですし、そうしているからこそ今も教員を続けられているのだと思います」
「学校の当たり前」とやり過ごしていたものに目を向ける。物事を単純化するのではなく、自分で考える。その都度、周囲と話し合う。それが本当に必要なのは、もしかしたら大人のほうなのかもしれない。先生や保護者一人ひとりの教育観が少しずつでも変わることが、教育のアップデートにつながっていくのではないだろうか。
(文:吉田渓、注記のない写真:izolabo / PIXTA)