ライフコーポレーションの創業者で、名誉会長の清水信次氏が10月25日、亡くなった。96歳だった。『週刊東洋経済』2015年7月4日号「シリーズあの時」に掲載した「ライフ創業者が語り尽くす流通70年史」を再録します。
敗戦後、19歳だった清水信次は三重県の家族の疎開先に戻った。だが、そこはわずか6畳の養蚕部屋。その小さな部屋に両親と弟妹の計6人が暮らしていた。家族は食べ物も寝床もままならない状態で、「自分が稼がないと死んでしまう」。何の当てもないまま、翌朝一番の汽車で大阪へ出掛けた。
大阪は見渡すかぎりの焼け野原だったが、もう闇市が立ち、食べ物や古着が飛ぶように売れる。清水も復員するときに支給された飯ごうや毛布、水筒などを売って当面の資金を作った。「案外いい値段で売れた。モノさえあれば売れるのではないか」。そう考えた清水は、闇市で商売を始めた。それしか方法がなかったというのが本当のところだ。
田舎に行って何でも仕入れた。和歌山の串本や三重の鳥羽では鮮魚や乾燥魚を手に入れ、桜エビも買った。それらを大阪や京都に運ぶと、案の定、高い値段で売れた。
「大阪におったらわからん。俺は東京に行く」
「イトーヨーカ堂の伊藤(雅俊)さんだって、東京の北千住でメリヤスの肌着を買って闇市で売っていたよ。ダイエーの中内(功)さんも三宮の闇市で薬を売っていたしね」。イオン(旧ジャスコ)創業者の岡田卓也も含めて、同じような発想で商売を始めていた。
ただ、闇商売には警察が目を光らせていて、清水も捕まった。いずれ闇市からは足を洗わなければならなかった。清水は手元の資金を頼りに、家業の「清水商店」の再建に着手した。
1950年に朝鮮戦争が勃発。「ああ、これで日本は変わる。大阪におったら情報がわからん。俺は東京に行く」。清水はそう決めるとすぐに当座の旅費とわずかな資金だけを持って、夜行列車に飛び乗った。
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