なぜ足立区は「学力トップ層向け進学塾」を始めたのか?
毎年、都立の進学指導重点校(日比谷、戸山、青山など)や、進学指導特別推進校(新宿、国際、小松川など)の合格者を輩出する「足立はばたき塾」。2012年度に足立区が民間教育事業者に委託し、区内の全中学校(35校)の中学3年生を対象に始めた塾だ。スタートのきっかけについて、同区教育委員会 教育指導部 教育政策課長 兼 学力定着推進課長の田巻正義氏は次のように説明する。
「今でこそ外部人材を活用した自治体の補習講座は珍しくありませんが、当区は15年以上前から取り組んでいました。その中で、通塾できないため塾のお試し講座を転々として受験勉強をしているような、学習意欲の高い子向けの支援も必要だという声が出てきたのです。さらにある学校からも『補習は教員がやるから、学力トップ層向けの公営進学塾をやってほしい』との提案があり、1年間のモデル事業を経て全校展開することになりました」
足立はばたき塾は、毎年1月に中学2年生全員に案内を行い、定員100名として入塾希望者を募集。「就学援助の認定基準×1.4」を上限とした世帯の所得審査を通過し、学力診断テストに合格すると入塾できる。
学力診断テストの結果に基づき4つのクラスを編成し、数学、英語、国語、理科、社会の5教科の授業を行う。年度始めの4月初旬から翌年の都立入試直前の2月中旬まで、原則毎週土曜日に40回の定期講座と、夏10日間・冬5日間の集中講座や特別講座を開講。また、年5回外部の学力模試も、効果測定と進路指導に活用する。公営塾とは思えない手厚い内容だが、そのぶんハードだ。
「中学1年時から塾に通っている子や、週に2〜3回通っている子たちがいる中で、足立はばたき塾の生徒たちは1年間・週1回の一斉指導で受験対策をしなければなりません。授業はかなり濃密だし、課題も1週間分しっかり与えられます。自己管理能力が求められるので『キツい』と感じている生徒が多いことは事実だと思います」と、田巻氏は話す。
折れそうな心を支え、モチベーションを上げるのが、年3回行う進路進学説明会だ。とくに最初の説明会では、高校入試に合格することがゴールではないことをまず強く意識させる。「高校入学は通過地点にすぎません。世の中が大きく変わっていく長い人生の中で、自分は今どこにいるのか、その先に何が見えるのか、これから求められる力とはどういうものなのかを講師の方が話し、生徒たちに考えてもらいます」と、田巻氏は語る。
エデュケーショナルネットワークに委託した2021年度は、最後まで通塾した81人のうち、進学指導重点校に3人、進学指導特別推進校に8人、進学指導推進校に21人が合格。55人が第1志望、21人が第2志望の高校に進学した。
これまでの卒業生に共通して感じられるのは、「やってよかったという達成感」(田巻氏)だという。確かにアンケートにも、質の高い授業や教材への感謝のほか、「勉強の習慣ができた」「学びが好きになった」といった学習に関する変化や、他校の仲間と共に学べた喜びなどが多くつづられており、充実した1年間だったことがうかがえる。
塾生に対して、高校卒業時とその3年後に追跡調査を行っている。彼らの卒業後について、田巻氏はこう話す。
「12年度~16年度の塾生の回答率は56%ですが、国立が13.4%、私立が64.9%と8割ほどが大学に進学。国立では千葉大、筑波大、お茶の水女子大、私立では早慶上智など難関大に進学した子もいます」
「基礎学力の定着」に注力、不可欠な「教員の授業力向上」
最近はSNSやメディアを通じて「足立はばたき塾」が注目される足立区だが、実はほかにもさまざまな形で学習支援を行っている。
とくに「基礎学力の定着」を大きな課題と捉えており、2013年に「学力定着推進課」を設置。それ以降、「教員の授業力の向上」と「児童・生徒の個に応じた学習の充実」を2本柱に据えた取り組みを拡充してきた。
「当然ですが、『授業』に重きを置いています」と、田巻氏。まずは授業で最低限の基礎学力をきちんと保証しようというのが、教育施策の根底にある。
そのため注力しているのが、「教科指導専門員」による教員の授業力向上だ。会計年度任用職員枠で採用した元教員(22年度は77人)が、すべての区立小・中学校を巡回し、主に若手教員を対象に「足立スタンダード」(※)に基づく事前指導、実際の授業観察、事後指導をマンツーマンの形で行っている。
※足立区独自の「授業の基本型」。「誰もがわかる授業」を実現するため、「めあてを明確にし、自分で考え、子ども同士で学び合い、学習した内容をまとめて、振り返りを行う、問題解決型の授業」づくりを前提としている
また、学力水準の高さや独自の探究型授業などで知られる秋田県(大仙市)に教員を5日間派遣する「教員交流」や、小中合同の研修や授業交流を通じて9年間を見通した授業づくりを目指す「小中連携教育」にも取り組み、授業力向上を図ってきた。
さらに特徴的なのは、科学的根拠に基づいた教育の実践を重視している点だ。毎年4月、前年度の学習内容から出題する独自の「足立区学力定着に関する総合調査」を実施しており、その結果を現場の教員が分析し、各学級の授業改善や個別指導などに生かしている。
「学力調査の結果を反映したSP表(学校/学級別解答状況整理表)が出るので、誰がどの単元でつまずいているのか、学級としてどの単元が苦手なのかが、一目でわかります。補習を行うにしても、扱う単元に応じて誰を呼べばいいのか簡単に絞り込めますし、学級という集団の弱みを学校全体で共有して年間指導計画を見直し、落としてしまいがちな部分の授業時数を増やすなどの対応もできます」(田巻氏)
外部委託も活用し、個に応じた学習支援を展開
もう1つの教育施策の柱「児童・生徒の個に応じた学習支援の充実」については、民間組織も積極的に活用しながらさまざまなアプローチを行っている。
基礎学力の定着を目的としたものとしては、前学年から当該学年の夏休みまでに習得すべき学習内容を少人数指導で確実に身に付ける「あだち小学生夏休み学習教室」(外部委託)や、算数・数学のつまずきを早期に克服し、授業に追いつくことを目的にしたマンツーマン指導の「中1夏季勉強合宿」、中学1年生を対象に英語の苦手意識を解消するための補習講座「英語チャレンジ講座」(外部委託)などの事業が挙げられる。
とくに高い効果があったのが、「MIM(多層指導モデル)」と「そだち指導」だという。MIMとは、拗音、促音、長音などの特殊音節についてつまずきが顕在化する前に、異なる学力層の子どもに対応した形で支援していく指導法だ。これを2014年度から区内全小学校の1年生に展開し、学習の基礎となる「流暢な読み」を目指している。
「集合研修で教員に具体的な指導法を学んでもらって実施しています。子どもたちは毎月アセスメントテストを受けていますが、読む力の向上がスコアにも表れており、これが学力向上のベースになっていると捉えています」と、田巻氏は言う。
一方「そだち指導」は、区内の全小学校に外部人材の指導員を配置し、3・4年生のうち区の学力調査でつまずきが確認できた子を対象に、別教室で国語と算数の個別指導を行うものだ。
「前年度の学習内容を振り返りながらつまずきを解消し、当該年度の授業も履修させなければならないので指導員はハードなのですが、子どもたちは『できた! わかった!』と満足して、クラスに戻っていきます。ここを乗り越えることで、5年生以降の学力低下も回避しやすくなります」(田巻氏)
学習意欲の高い子どもたちに向けたものとしては前述の「足立はばたき塾」のほか、中学の全学年を対象に英語4技能を伸ばす「英語マスター講座」(外部委託)がある。後者は、「英語力判定テスト」に合格した90人が、無料で年30回、週1回約2時間のオンライン英会話によるマンツーマンレッスンや、グループ形式の授業が受けられる。
英語力強化、AIドリル活用など時代に合わせた対応も
最近の取り組みとしては、2020年度からは区内の全中学2年生を対象に英語4技能調査(GTEC)を実施。中学3年生の1年間でどこまで英語力を伸ばせばいいのか、授業改善の指標として活用している。
さらに今年度は、小学3年生〜中学3年生に5教科のAIドリル「Qubena(キュビナ)」を導入した。その手応えについて田巻氏は次のように語る。
「AIドリルは使えば使うほど学習履歴が蓄積されて、各自に適した問題が出題される設計になっており、基礎学力の定着に適した教材だと思います。授業のまとめや補習、家庭学習などで活用していますが、問題作成からプリント印刷、採点、集計までの手間もなくなるので、先生方の働き方改革にもつながっています」
同区では複数の取り組みの結果、「全国学力・学習状況調査」の平均正答率は、小学校では教科によっては全国平均を上回り、中学校では全国平均を下回るもののその差は縮小している。
毎年実施している「足立区学力定着に関する相互調査」の通過率(目標値以上の正答があった児童・生徒の割合)も、14年度から小学校、中学校ともに上昇傾向だ。22年度は前年度の成績を下回り課題が残ったが、学年・教科別の正答率では中1英語は全国値(調査委託事業者が取り扱う全自治体分の平均値)と同じ、そのほかはすべて全国値を上回った。
今後の課題について、田巻氏はこう語る。
「現在推進中の教育施策は、GIGAスクール構想前のものが大半を占めているので、それをICT活用の中でどう組み替えていくか。22年度はAIドリルを導入しましたが、よいものはどんどん取り入れていきたいと考えています」
また引き続き、足立スタンダードにのっとった主体的・対話的で深い学びを追求していくことも、ミッションの1つに位置づけている。
「18年度から『図書館を使った調べる学習コンクール』(公益財団法人図書館振興財団主催)に参加していますが、こうした主体的な学びをさらに広げていきたいです。また、タブレット端末で検索できる『点と点の情報』を図書館という情報の宝庫と連携させ、子どもたちの質の高い学びにつなげる『学校図書館の活用』も大きなテーマです」
(文:田中弘美、写真:足立区教育委員会提供)