「子どもたちのために」が主体性を伸ばす機会を奪う、親切すぎる教師の罪 「不親切教師」が子どもを伸ばし残業も減らす訳

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過去に松尾氏が小学校2年生を受け持った時、子どもたちに「本当は教室に何を張りたい?」と聞いてみた。返ってきた答えは、「折り紙とか、自分たちで描いた絵を張りたい」。そこで、教室の掲示物を全部剥がしてみたら、何も問題がなかったという。

「教室は子どもたちのための場所ですが、こちらの都合でやっていることも多いですよね。例えば、全員分のクリアファイルを掲示し、その中にその子の学習の様子がわかるものを入れるという学校も多いと思います。しかし、子どもたちはお互いのファイルの中身を見ていないし、興味も持っていない。それでもやめないのは、教育委員会が学校訪問した際、中身がそろっていないと指導されてしまうからといった事情もあります。このように、主権者であるはずの児童生徒の視点が入っておらず、大人の都合でやっていることも多いのです」

子どもの体験を奪う教員の「頑張り」

教員は日々、子どもたちのために頑張っている。しかし、その「親切さ」は、意図しないメッセージを発することにもなりかねないと松尾氏は指摘する。

「子どもたちは一人ひとりがいろいろな種を持っていて、伸びたがっています。それなのに先生がどんどんやってしまうと、子どもたちはやってもらって当然と感じ、受け身になってしまいます。それが先生からの『あなたたちには無理』というメッセージになってしまい、子どもに『自分には無理』という学習性無力感を植え付けてしまうのです」

松尾氏がそう考えるようになったきっかけ。それは、自身も「親切すぎる」指導をしていた頃にさかのぼる。街中にある小学校で5年生を担任した時だ。

「田んぼを作って稲を育てるという授業をやりました。水道代もかなりかかるので、プールの水を再利用したり、合鴨農法のための合鴨の世話をしたり。夏休み中も私たち教員が一生懸命管理をしていました。そうしてやっとおコメが取れた時、子どもが言ったんです。『先生、おコメを作るのって簡単だね』って。ひざから崩れ落ちるかと思いましたね。でも、考えてみれば、子どもたちがやったのは田植えと刈り取り、そしておコメを食べることだけ。そう気づいた時、『教員が苦労することで、子どもの体験を奪ってはいけないのだ』と強く感じました。子どもたちはぶつかったりしながら学んでいくもの。社会ではそれがスタンダードですから。学校も温かい空間でありながら、子どもたちが自分で問題解決をできる場にしたいのです」

松尾氏が勤務していた学校では、げた箱に名前ではなく番号シールを貼り、使用する児童が変わっても汎用的に使えるようにした
(写真:松尾氏提供)

児童の問題行動がぴたりとなくなった理由

教員が先回りしている時点で、その問いの答えは出てしまっている。予定調和を目指す学びに取り組む必要があるのか。そう考えたという。

「子ども集団には教員の教育よりも断然大きな教育力があります。そう実感した出来事がありました。トラブルを多く起こす児童を受け持った時のこと。その子を仮にAとしましょう。あまりにも悪いことばかりをするので、ほかの児童から『いい加減にしてくれ』という声が上がったほど。子どもたちだけで話し合った結果、『Aさんのいいところをもっと伝えよう』『Aさんだけでなく、みんなのいいところを言い合おう』ということになったんです。すると、その児童は問題行動をピタッとしなくなったのです。私が注意してもやめず、どうしていいかわからなかったことを、子どもたちが解決したのです」

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