
「東洋経済新報」1953年9月19日号
吉田五郎や内田三郎らが創設した精機光学研究所(現キヤノン)に共同経営者として参画したのが、産婦人科医だった御手洗毅氏(1901 - 1984)。戦時中にシンガポールに赴任した内田氏から留守中の経営を任されたのを機に、御手洗氏は同社の経営を掌握。戦後の躍進期に長く社長を務めることになった。今回紹介するのは、家族主義、実力主義を標ぼうするなど、先進的な経営で知られていた御手洗氏への1953年におけるインタビューである。「カメラの心臓部であるレンズでは、ドイツに絶対に負けない」「工作機械など日本では大多数が戦争前のもので精度が落ちる。新鋭機を輸入しなければ、海外製品を追い抜くことは困難」と率直に語っている。
本社 本日は復興西ドイツの実情、中でもカメラ工業の実情とか、経営者の態度とか、労資間の問題、向こうの技術水準や、産業政策などについて、いろいろお話を願いたいと思うのですが……。
御手洗 私はドイツを主として、自分の関係の工場、会社を見学してきました。したがって、2、3年もおる人の目に映るのと、多少違いがあるかもしれません。
ライカを探る
単純組合はない
御手洗 まず、私どもに関係の最も深いカメラの話ですが、ご承知のようにドイツはカメラの本場といいますか、発祥地です。戦後日本のカメラも急速に躍進して、海外からも好評をえていますが、実際はドイツに比べはたしてどうか。その点、とくに注目されるのが、私どもの製品に最も類似し、国際競争の好敵手であるライツ社のカメラ、ライカです。
そこでライツ社ですが、お会いしたのは社長の弟さんの副社長でしたが、結局お兄さんが留守であるのと社則からもカメラ部門は遠慮してもらいたいということで、見学は光学部門だけにとどまりました。しかし、その間見たり、聞いたりのあいだに、種々教えられるところが、多大でした。
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