「初年度倍率12倍」注目を集めた教育の気になる中身

東京農業大学稲花小学校は、2019年に誕生した新しい小学校だ。東京・世田谷区の閑静な住宅街に位置し、東京農業大学(以下、東京農大)および東京農大第一高等学校・同中等部に隣接している。約130年の歴史を持つ同大の学園化構想の総仕上げとして、満を持しての開校だった。21年現在、在籍する最高学年児童は3年生。真新しい校舎の最上階はまだほとんど使われておらず、新5・6年生がやって来る日を待っている。

開校初年度の19年には72名の募集人員に対して延べ865名が受験した。2回の試験を重複して受験している子どもも多いが、延べ人数では「12倍」という高倍率となった。受験機会が1回となった最新の22年度入試でも人気は衰えず、同じく72名の定員に962名の志願者が集まった。競争率は約13倍だ。都心では小学校受験をする子どもが増えており、倍率は全体的に上昇傾向にある。だが、ここまでの人気は学校としても想像していなかったという。同校の校長の夏秋啓子氏は、当時の驚きを次のように振り返る。

「私自身、長く東京農大で研究を続けてきました。その分『東京農大がつくる小学校』に対してどんな方が興味を持つのか、客観的なイメージが湧きにくい部分があったのです。初年度からの予想以上の人気に、ご家庭から本校への大きな期待を感じました」

校長の夏秋啓子氏。「生命科学は子どもの好きな分野。初等教育にもなじみがあります」と語る

農大稲花小の教育には、大きく分けて4つの特徴がある。まず1つ目は、1年生から毎日英語科のカリキュラムがあることだ。授業は英語を母国語とする外国人講師が英語のみで行い、現代社会で求められるコミュニケーション能力を培う。今、小学校受験の志望校選びで英語教育を重視する家庭は多く、保護者の支持を集める大きなポイントとなっている。

2つ目には、食育を意識した給食が挙げられる。東京農大と関連のある生産者の食材を使ったり、国内外の多様な食文化を取り入れたり。生きた教材となる多彩なメニューが、毎日校舎内の厨房で調理されている。

とくに共働きの家庭にうれしいのが、3つ目の特徴である「農大稲花アフタースクール」だ。放課後を安全かつ有意義に使える登録制のシステムで、ほぼ100%の児童が登録しているという。延長すれば19時まで滞在可能で、希望者はサッカーやピアノなどのプログラム(有料)も受けることができる。

そして最大の特徴ともいえる4つ目が、東京農大の小学校らしい体験型学習である。東京農大で副学長を務めた夏秋氏の人脈もあって、同大との連携も多く行われている。

「熱帯植物を専門とする教授に講義をしてもらい、マンゴーやサトウキビを試食したこともあります。稲作体験も実施しますが、ただ育てるだけでなく、稲を研究する教授を招いて世界の稲作について学んだことも。また、先日は2年生が神奈川県にある東京農大の農場に行きました。果樹園では柿やリンゴ、キウイなどを育てていますが、それらの葉を子どもたちに渡して、それぞれどの木のものかを探させたのです。見つけたら果実を採って味見できるというご褒美もあり、子どもたちは楽しそうに取り組んでいました」

学校の敷地内では季節に応じた野菜などを栽培(左)。地下の給食室。この日のおかずは北海道の郷土料理・鮭のちゃんちゃん焼きだった(右)

体験型学習は、基本的な学びを定着させるための手段

東京の中心にありながら、子どもたちは日常的に豊かな自然に触れることができるのも、農大稲花小の人気が高い理由の1つだ。保護者の意向だけでなく、同校で学ぶ子どもたちは自然への関心が高いという。

「虫や動物が好きだという子どもが多いですね。将来の夢を聞くと、獣医師や漁師、農家になりたいという子もいます」

ほかではなかなかまねのできない取り組みが耳目を集める一方、夏秋氏は「本校は王道を行く小学校です」と断言する。

1学年ごとに、各クラス担任の教員2名と副担任1名の3名でチームをつくっている

「重視しているのは、基本的な学びがきちんと定着することです。今、子どもたちはいろいろなことを本当によく知っていて、聞かれたことにもすぐに『知ってる!』と答えることができます。でもそれはインターネットや本で得た情報で、本人の経験ではないことが多い。本校の体験型学習では、そうした知識や座学の授業での学びを、実際に手に触れたり味わったりすることを通して、より深く身に付けるというサイクルができるのです」

育てたいのは、東京農大創設者の榎本武揚の言葉を基にした「冒険心」を持つ子どもだという。

「生きていくうえで、子どもたちは習ったことのない問題に必ず直面します。そうしたときに対処できるよう、学んだことを深く定着させ、さらに自分の中の知識をつなげるネットワークをつくってほしいのです。本校が目指す冒険とはいたずらに危険に飛び込むことではなく、対象を知り自分を知り、きちんと準備して未知のことにもチャレンジすることです」

例えば動物や植物に触れる機会の多い同校では、給食の時間なども使って、子どもたちのアレルギーへの理解を深めているそうだ。

「クルミアレルギーの子どもがいるクラスで農場へ行ったとき、子どもたちはクルミの木を見つけるとすぐに『○○ちゃん、クルミの木があるよ! 気をつけて!』と友達に教えていました」

ほほ笑ましいエピソードだが、これはアレルギーを持つ児童にとってのクルミという「危険」を、知識で回避しようとした「冒険」の一例といえるだろう。友達のことを知り、守ろうとするコミュニケーション能力が育っている証しでもある。夏秋氏は「高学年になればさらに自分を知り、より高度な挑戦に向かっていくことができるようになるでしょう」と続ける。

新設校だからできる大胆な働き方改革とオンライン化

「わが子を危険にさらしたくないという保護者の方もいます。しかし、変化を続ける現代社会で、子どもは親世代も経験したことのない未来を生きていきます。そのためには語学力やコミュニケーション能力はもちろん、冒険心が必要不可欠なのです」

こうした教育を徹底するため、同校は保護者にも一定の理解を求めている。座学と体験でサイクルをつくるように、学校と家庭、それぞれの指導でもサイクルをつくるのが同校の方針だ。入試の際には保護者の職業観などについても確認するという。

「本校はまだ新しい学校で試行錯誤なところもありますが、応援してくれる保護者が多く、とても助かっています。子どもにとっても保護者にとっても、教員にとっても楽しい場所。それがわれわれの理想とする小学校です」

図書館では保護者に推薦書籍のリストも配付。高学年向けの本がまだないのが新設校らしい

新設校だからできる大胆な改革も、保護者の理解を得て実現させている。前述のアフタースクールもその1つだ。この取り組みで、同校は子どもだけでなく、教員の放課後をも有意義なものにした。

「子どもたちを全面的にアフタースクールに任せて、教員の時間外勤務を極力をなくしました。本校には熱心な教員が多いのでつい仕事をしてしまいがちなのですが、力の入れどころを定めることで、つねにいいパフォーマンスを発揮できるようにしています。余裕のない働き方では教育の質も上がりませんから」

コロナ禍をきっかけに校内のオンライン化も進めたが、その成果は保護者や教員にとっても大きなものだった。

「昨年度は入試の面接もオンラインで行いましたが、子どもたちも伸び伸びした態度で臨んでいて、普段どおりに近い姿を見ることができ大変有効だと感じました。授業参観もオンラインで実施したところ、子どもたちの顔がよく見えるし、休み時間の様子などもわかると保護者にも好評です。形骸化していることは見直して、いいことはどんどん取り入れる。子どものために何がいちばんいいかをつねに探っています」

よりよい農大稲花小を、保護者も子どもも一緒につくっていってほしいと話す夏秋氏。新しさと不変性を併せ持つその教育方針で、今後も人気を呼びそうだ。

(文:鈴木絢子、撮影:尾形文繁)