日本「英才教育」と米国「エリート教育」何が違う? 今、注目の「非認知能力」が子どもに必要な理由

そんなボーク氏だが、16年に日本に帰国した際、たまたま書店で育児書のコーナーを訪れ、目にした光景に衝撃を受けたという。
「どうやったらある特定の大学に入れるか、子どもの偏差値を伸ばすか、テストの点数を伸ばすか……、そんな本ばかりがずらずらっと並んでいたんです。正直に言えば、グローバル社会の流れから逆行しているようにみえた日本の教育に衝撃を受けました。もちろん、日本の認知能力教育のレベルの高さは、世界一といっても過言ではありません。ただ、このグローバルな世の中で、認知教育のみにフォーカスしているのでは、時代に逆行してしまいます」
今、非認知能力を取り入れた教育にシフトしなかったら、グローバル社会からおいていかれるという、強い危機感を抱いたそうだ。
「今って、一国で解決できる問題ってないですよね。経済も、政治も、ウイルスだって、ありとあらゆるものが国境を越えてグローバルに展開しています。これから、よりグローバル化が進むこの時代に、認知能力だけで育ってきた日本の子どもたちが、世界で手を取り合って一緒に問題を解決していくことができるのか。高い認知能力を持つ日本の子どもたちに、そこに非認知能力で育まれる、社会性、共感力、思考力、表現力、高い自己肯定感と幸福感を与えたい、そう強く思いました」
「英才教育」と「エリート教育」の違い
「日本と米国の教育の視点について、いちばんの違い、それはどんな人間を社会に送り出したいのか、だと思います。つまり、教育するに当たって、どんな人間を育てたいのかという視点。日本の教育は『英才教育』、能力が高く、教えられたことをそのままアウトプットでき、グループの輪を大事にする、いわゆるよい子を育てることに重きが置かれていると感じます。一方、米国ではそれらはあまり重視されません。米国の教育は、『エリート教育』。自ら学びを設定し、答えを見つけ、論理的思考力を伸ばすことで、分析力・判断力・決断力を身に付け、自分の属するコミュニティーや社会に貢献できる子が求められます」
日本の「英才教育」では、主に個人的な利益を追求するのに対し、米国の「エリート教育」では、社会にとって有益な人物に育てられるかどうか、ということを重要視するのだという。最終的にどんな大人に育ってほしいか、という視点そのものが違うのです、とボーク氏は語る。
楽器に例えると、とボーク氏は続ける。
「日本の教育は、すべての子どもたちにバイオリンを弾かせるイメージです。不協和音が出ないことに細心の注意を払いながら、子どもたち全員で同じ旋律を弾く。仮にバイオリンが不向きな子がいても、関係ない。とにかく全員で同じ楽器を弾き、同じメロディーを奏でる。そこにある視点は、たった1つです。一方、米国の教育は、子どもたちは自由に楽器を選び、自分の個性や強みに合うものを奏でて、オーケストラをつくり上げるイメージです。いろいろな個性があって、強みもさまざま。教育も多様性を認めており、決して均質ではありません」
さらに、受験に対する考え方も、日米ではまったく違うという。
「日本の受験でも最近ではAO入試が増えましたが、やはり最重要視されているのは、テストの点数だと思います。効率よくテストで点を取る勉強法やテクニックを学び、1点でも多く取るために、時間とお金を費やす。一方、米国の受験では、ホール・チャイルド・アプローチという考え方に基づいて、子どもを評価します。ホール・チャイルド・アプローチとは、テストの点数だけではなく、その子が育った環境や、その子がどんなことが好きで、社会貢献活動など、どのように社会と関わってきたか、学校内外での活動を総合的に見て、子どもを評価します。共通テストの点数はそこそこであっても、いろいろな視点から見て、魅力のある子に育てることを重視するということです。そのためには、子どもがどんなことが好きで、何をして、学校の内外でどう貢献できるのか。自分のいるコミュニティーにどう貢献できるのか、ということを見ていきます。子どもは勉強さえしていればいい、という考え方ではなく、子どもに対して、どのように社会と関わり、貢献できるのかをつねに考えさせるのです」