上智大学が目指す「国際的な教養力」の本質 必要なのは「議論への貢献」「意思決定の質」

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グローバル人材の育成が急務と言われる日本社会だが、そもそも「グローバル人材」に求められる資質とは実際にはどのようなものだろうか。そして、社会にそうした人材を送り出す高度教育機関である大学は、今何をすべきなのか。かつて同じ大学の研究室で切磋琢磨していたという上智大学の嘩道佳明学長とMSCIの長澤和哉北アジア代表に聞く、国際的に通用する「教養の本質」とは――。

グローバル人材の不足は各国共通

――世界を舞台に日々飛び回り、活躍されている長澤さんから見たグローバル人材とはどのような人なのでしょうか?

長澤:私は国際投資をする投資家のためにベンチマークとなる情報の提供などをするMSCIのアジア太平洋地域の業務執行委員、そして日本を含めた北アジアの代表を務めています。今グローバルでは20カ国以上の拠点、3000人ほどの従業員がおりますが、グローバル人材不足というのは日本に限ったことではなく、どの国でも苦労していますね。

むしろ、日本人の仕事のクオリティは極めて高く、スピード、量、チームワークなど基本的な要素で見ると、とても信頼できる人が多い印象があります。一方で日本人が伸ばすべき分野は、多国籍のメンバーを率いて業務達成に向けて戦略を設定したり、マネジメントしたりするスキルです。ここは教科書のようなマニュアルは存在しないソフトスキルなので、キャリアの早い段階からの経験を積まないと身に付けるのは難しいかもしれません。

上智大学学長
曄道(てるみち)佳明
慶應義塾大学理工学部機械工学科卒、同理工学研究科博士後期課程満期退学。博士(工学)。2004年上智大学理工学部教授。学生センター長、入学センター長、学務担当副学長、グローバル化推進担当理事補佐などを経て、17年4月より現職

曄道: 私は「教養の国際通用性」が、日本人に欠けている部分ではないかと思っています。

たとえば、ビジネスの席では、双方が同じ議題についていろいろ準備をして集まりますからそれなりに話はできます。しかし、たとえばレセプションなど非公式な場で一般的な世間話をした時に、教養が問われる場面が多々あり、戸惑ってしまう日本人が多い。これは隠れた日本のデメリットになっているのではないかと考えています。

端的に言えば、歴史の年号や出来事はよく覚えているけれども、歴史認識の話を宗教や哲学、社会に結びつけて話をするのは不得手です。その結果、仮に「教養がない」という印象を相手に与えてしまったら、ビジネスでは不利になる可能性がありますよね。

長澤:そのとおりだと思います。まず頭に入っている知識という面では、多くの場合、海外の方のほうが深くないけど広い。だからこそさまざまな話題にちゃんとついてこられる。さらに複数で話すときでも、議論をより良い方向や有益にするための発言をすることは楽しみであり、義務であると考えています。そこは大きく違いを感じますね。

曄道:そうした議論の席にただ出席しているだけで積極的に会話にかかわっていく姿勢を見せなければ、その人の印象はゼロではなくマイナスになる可能性があるということです。

このようなことを言う私自身も国際通用性のある教養があるのかと問われれば、実は自信はありません。ただ、つねに努力は続けています。教養とは日々の積み重ねだと思っていますから。

――議論に積極的にかかわるとは、具体的にどうようなことを指すのでしょうか?

長澤:たとえば、答えを出すための議論もあれば、答えを出すために必要な論点は何なのかをまず洗い出すための議論もあります。論点の整理だとすると、その議論に寄与するのは参加者全員です。それぞれが異なったバックグラウンドを持っているからこそ、その人なりの独特な視点や考え方を出すことが必要になります。つまり、先ほど曄道さんがおっしゃった幅広い教養が第1ステップ、教養なり経験をもとに意欲的に議論に貢献することが第2ステップとなります。

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