戦時教育の名残「みんな仲良く」が子を追い込む、仲が悪くてもいい「教室で共存の練習」を 好き嫌いを超えて協働できる力が求められる
「仲良くできない」も大切な学び
子ども同士がもめたり、グループができたりすると、つい「仲良くさせなければ」と介入したくなるのが大人の心理です。しかし、それは多くの場合、大人側の安心を満たすための行為にすぎません。
私が以前担任したクラスでは、班替えのたびに「○○さんとは一緒がいい」「あの子とは組みたくない」という声が出ました。そのときは、「仕事では組みたい人と一緒にできないのは、普通のこと。学校は社会の練習の場でもある。何事も経験だよ」と説明し、あえてランダムに編成しました。
最初は不満げだった子どもたちも、時間が経つと互いの得意分野を生かして役割を分け合い、意外な組み合わせが成果を出す場面も見られました。
私は常々子どもたちに、こう伝えています。
「苦手なら距離をとってもいい。でも悪口や仲間外れは違う」
「自分が100点満点で満足しているとき、陰で誰かが哀しんでいると思ったほうがいい」
必要なのは、仲が良いか悪いかには関係なく、必要な場面で協働できるようにしていくことではないでしょうか。
これは社会人の仕事と同じです。もし学校が「仲良くしなさい」だけを教え続ければ、将来、対立や価値観の違いに直面したときに立ちすくむ大人を生みかねません。「仲良くできない」状況にどう対処するかを学ぶことこそが、現実社会を生き抜く力になります。
「仲良くしなさい」という言葉に悪意はありません。しかし、その“善意”が子どもを追い詰めることもあります。戦争を経験した世代が異論を封じる怖さを知っているように、教室でも同じ過ちを繰り返してはなりません。
目指すべきは「誰とでもゆるくつながれる」関係性です。教室での共存の練習は、そのまま社会で異なる文化や価値観を持つ人と関わる力になります。戦争のない時代を生きる私たちは、その平和を維持する術を次の世代に手渡す責任があります。
形だけの仲良しではなく、違いを受け入れたうえでの協力こそが、本当の意味での「やさしさ」だと信じています。子どもが安全に意見を異にし、距離を置きながら共存できる――それこそが現代教育における“やさしさ”であり、平和を守るための小さな礎なのです。
(注記のない写真:Fast&Slow / PIXTA)
執筆:千葉県公立小学校教員 松尾英明
東洋経済education × ICT編集部
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