【前編】日本の吹奏楽部が抱える「感性の危機」?プリンシプルなき地域展開が招くもの コンクールがはらむ見過ごせない数的事実とは
このような結果になってしまった極論的な要因が1つ推測できる。それは、「吹奏楽作品では、良し悪しを見極める耳、すなわち“感性”が育たない、もしくは鈍るかもしれない」ということである。非吹奏楽経験者と既吹奏楽経験者を分ける最も明確な要因は、「吹奏楽作品に触れたことがあるかないか」だ。だとすれば、この極論にも一定のたしからしさが存在するはずである。吹奏楽作品の質に問題がある可能性が高い、ということになる。
そもそも吹奏楽作品は、吹奏楽従事者以外にほとんど知られていない、という事実がある。例えば、クラシック音楽に詳しくない人でも、ベートーヴェンの『運命』や『第九』を知る人はおそらく多い。モーツァルトの『トルコ行進曲』や、ドビュッシーの『月の光』もよく知られているだろう。古今の歴史的名曲は、時代のトレンドの趨勢に淘汰されることなく、時代や国々の独自の文化の壁を乗り越えて、普遍的芸術美をもって生き残っている。だが吹奏楽作品には、そのような高い芸術性を含有した、人間の進化を涵養する芸術的栄養にあふれるものが多くあるとは、悲しくも言いがたい。
さて、ここまで、吹奏楽部の本質に関する議論が不十分であるがゆえに、地域展開の具体的な計画立案が困難となっていること、そして、そもそも「吹奏楽部の本質」を語るには、吹奏楽作品が音楽的な問題をはらんでいることを論じてきた。
【後編】では、吹奏楽コンクールにおける課題曲の劣化や審査基準の問題、そして指導法の曖昧さなどを指摘しつつ、吹奏楽部の地域展開で「音楽的な基礎教育」の再構築が必要な理由について述べていく。
(注記のない写真:AYA / PIXTA)
執筆:北海道教育大学音楽文化専攻合奏研究室21世紀現代吹奏楽プロデューサー渡郶謙一
東洋経済education × ICT編集部
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