渋幕のあらゆる活動の土台「自調自考」
子どもたちが自分自身の好奇心に従って、先生や親から「勉強しなさい」といわれずとも、自分から学ぶ力をつけていく学校があります。それが、千葉県にある渋谷教育学園幕張中学校・高等学校、通称「渋幕」です。
渋幕のホームページで、「教育目標」を確認すると、次の3つの言葉が並びます。
〇自調自考の力を伸ばす
〇倫理感を正しく育てる
〇国際人としての資質を養う
「渋幕らしさ」は、実はひとつの教育目標に支えられています。それは、「自調自考」です。
渋幕のあらゆる活動において「自調自考」が土台になっており、卒業生からも、在校生からも、思い入れのある言葉として必ずといっていいほど挙がります。
「自調自考は何百回と聞かされるので、自然とその力がついていくのだと思います」。「卒業するとき、『自調自考』と書かれた掛け軸を外して記念写真を撮った友達もいたくらい学校を象徴するものです」。そう語る卒業生もいます。
自調自考は文字通り、「自ら調べ、自ら考える」人間を育てていく教育目標です。近年では、さらに「自らを調べ、自らを考える」という意味へと深化しているそう。自分を知ることで、自己と社会を客観視することができると示しているのです。
「自ら調べ、自ら考える」はわかりやすい。調べ、考え、行動する、いわゆる「主体性」や「自主性」を育んでいくイメージです。では、「自らを調べ、自らを考える」とはどういうことか、少し立ち止まって考える必要があります。これはいわば自己認識へのアプローチです。外に向かっていく自己主張的な「自ら調べ、自ら考える」ことと、内に向かう「自らを調べ、自らを考える」自己認識では、ベクトルが逆です。
しかし、その逆方向に向かった矢印がつながっていくことが、渋幕の学びの醍醐味です。校長の田村聡明先生は、自調自考について「人間が生きていく上で欠かせないエネルギーの源だ」と語ります。
「これからの自由な社会で生きていくには、『自分がどうしたいか』という出発点がなくてはなりません。18歳は、現代社会においてはもう大人です。自分が好きで、やりたいことをしっかりと考え、行動に移せること。それは大人として不可欠な力でしょう。自調自考は生徒たちのその後の人生に大きな影響を与える言葉だと考えています」
「自調自考」が浸透している要因
では、なぜ「自調自考」が生徒・先生のすみずみにまで浸透しているのでしょうか。
その要因のひとつとして田村哲夫学園長による講話があります。開校から長く校長講話として続き、現在は学園長講話と名前を変えて、「人間形成」「自由とは」などのテーマで、これからの社会を生きていくために必要なことをメッセージとともに伝えています。田村聡明校長も、「講話を通して、自由の大切さと、それを享受する責務について話をしています」と語ります。
私も学園長講話の一部を聞かせていただきました。講話では、壮大な図書館の本を一冊一冊手に取って歩いているようなリベラルアーツの世界が広がっています。
学園長講話は、中1で「人間関係」、中2で「自我の目覚め」、中3で「新たな出発(創造力)」、高1で「自己の社会化」、高2で「自由とは」、高3で「自分探しの旅立ち」をテーマに語られます。
そして、その学園長講話の軸となっているのが「自調自考」です。卒業生に学園長講話の思い出について尋ねると、「真面目に聞いていた生徒ではなかったんで……」と多くの方が苦笑します。しかし、「覚えていることはありますか」と聞くと、「『自由とは』については時折思い出すんですよね」と自身の人生につながっている言葉についてポツリポツリと話し出す。
10代の感性にじわりじわりと染み込んでいる――。そんな学園長講話の影響力を感じさせられました。
ある卒業生は学園長講話をこう振り返ります。「今考えると、すごくいい話をしてくれていたのですが、中高生時代の私は校長講話(当時)の内容をいまいち理解できていませんでした。でも、『自調自考』の精神もそうですし、教養の大切さもいつの間にか染み込んでいました。特に、覚えているのは『きみたちはすごくかけがえのない人材なんだ。日本を背負って立つ人間になるんだよ』といい続けてくださったこと。いつの間にか、社会を支える人間にならなければ、と思っていました」
教育とは「環境設計」です。中高生の時点で、学園長講話のすべてを理解することは難しいかもしれません。しかし、リベラルアーツの海に浸り続けることで、知らぬ間に全身に浸透していく。そんな効用が学園長講話にはあるのではないでしょうか。
管理主義的な教育から主体性を養う教育へ
今、日本の学校教育は少しずつ管理主義的な教育から主体性を養う教育への転換が進められてきています。しかし、渋幕開校時の40年前は校内暴力がピークの時代。少年少女たちの荒れが問題となり、いかに厳しく管理をするかに重きが置かれていました。そのため、管理教育を前提とした生徒指導に重きを置く学校が大半だったのです。
その中で、「自ら考える」ことを肯定する渋幕は「変わった学校」と見られていました。しかし、40年経った今、中学入試の一次入試が2〜3倍、二次入試が7〜10倍の倍率を誇る人気校となっています。「変わった学校」が「求められる学校」へと変わっていったのです。
生徒や卒業生からしばしば飛び出すのが「渋幕的自由」というキーワード。2022年度入学式で、新校長に就任された田村聡明先生が式辞で、「渋幕的自由という言葉が生まれたように、本校は自由な学校です。自由は個人の尊厳や権利を尊重するところに生まれます」と述べられました。
では、渋幕的自由とは何なのでしょう?取材では、卒業生が部活動でのエピソードを話してくれました。
「私は高校3年生のとき、多くの生徒が引退するタイミングで抜けずに、自分の納得がいくまで部活動をやり切りたいと考えていました。勉強時間は限られていたので、結局、偏差値の高い大学には行けず、受験結果から見れば失敗だったかもしれませんが、生徒の情熱を大事にし、やりたいことを思い切りやらせてくれる環境は非常にありがたかったです。社会に出て、このときに打ち込ませてくれてよかったなと感じています。今振り返ると、渋幕は自分で挽回できるような力を育てようとしてくれていたのだと思うのです」
卒業生の言葉から、渋幕的自由には短期的には失敗に見えることも、長い目で見て「自分で正解にしていく力をつける」という思いが込められていると感じます。そして、その「自由」は学校の一部分で行われているのではなく、勉強でも行事でも部活動でもあらゆる学校生活において反映されていることもわかります。「自由」を標榜する学校は少なくないですが、一貫して生徒に委ねて、「渋幕的自由」を体現させていることは同校の大きな特徴だといえるでしょう。
一方で、渋幕では「やりたくないこと」を表明する権利も認められています。渋幕には、放課後や夏休みの講習などたくさんの学習機会が用意されています。強制はされていないので、受講することも、しないことも自由です。
社会科の高橋哲先生は「ひとつも講習を取らずに、『自分で勉強します』という生徒も中にはいます。私が学年主任だったときには、350人の学年で30人ぐらい全く受講しない子がいました。この受講しない人数が7〜8割になったら、学校として教育活動を再考しなければいけませんが、ある一定数いることはむしろ自分たちで判断できる生徒に育っているということだと思うんです」といいます。
「渋幕的自由」は生徒の自由と責任のもと意志決定していく姿と、先生が生徒の「やりたい(やりたくない)」という思いを尊重する環境整備によって生まれていった象徴的な言葉だと感じます。
卒業生に「渋幕に合っている子・合っていない子は?」と尋ねた際、「入学してから、その子の性質が変わることもある」と前置きした上で、「自分で考えたいと思っている子」「これがやりたいということがある生徒」は合っているといった声が聞かれました。
一方で、「誰かに決めてほしい」「レールに乗っていきたい」と思う子は辛いかも、という発言がありました。
塾でも勧められていることですし、渋幕だけに限ることではないですが、実際に学校に見学に行って子どもにマッチするかを確認しておくことはとても大切です。
取材の中では、文化祭などの行事を見て、その自由な雰囲気に惹かれて入学を志望したと語ってくれた生徒・卒業生が多かったです。また、「共学であることがポイントになった」という生徒もいました。男子校・女子校の御三家に受かったけれど、「渋幕を選んだ」という生徒・卒業生もいました。また、生徒たちの登下校の様子を親子で見に行って、お子さんが通う「日常」をイメージできるかを考えてみることもオススメです。
(注記のない写真:MARODG / PIXTA)