元キャリア官僚「結局、文科省が悪い」論に本音、降り注ぐ教育改革への向き合い方 学校がもっと「しなやかでしたたか」になるべき訳

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2023年には、単著を出版する機会もいただきました。タイトルは『教育改革を「改革」する。』。帯には、次のように書きました。「矢継ぎ早に『流星群』のように降り続く『教育改革』に負けない学校になるためには、どうしたらいいのか」。

冒頭のように、「諸悪の根源」のごとく評される文科省。そのことに入る前に、「なぜ今学校が苦しいのか」について、僕の考えを述べたいと思います。

まず、これまで約20年にわたり「教育改革」の仕事に取り組み、そして現在も教育行政に携わる者として、確信を持って言えるのは、「今、多くの学校は、変わろうとしている」「変わろうと、懸命に努力している」ということです。

学校教育に不満を持つ方々からすれば「遅すぎる」と批判を受けそうですが、考えてもみてください。大半の学校の先生にとって、学校というのは、「こどもの頃のステキな思い出が詰まった場」です。自身が児童や生徒として受けた教育や学校での生活が、つらい思い出ばかりだった人が、はたして「仕事として学校に戻ろう」となるでしょうか。

つまり、教師たちにとって、「教育改革」とは、思い出の否定であり、そしてある意味では自分自身の否定でもあるのです。そんな苦しさを抱えながら、それでも多くの教師たちは、自分自身と、そして目の前のこどもたちに向き合い、「よい教育とは何か」を問い続けながら、「変わろう」と努力しています。

学校現場に決定的に不足している5つのリソース

しかし、その営みは、残念ながら逆境の中にあります。David Cohenという教育学者は、次のように述べています。

We might expect only a little from those policies that try to improve instruction without improving teachersʼ capacity to judge the improvements and adjust their teaching accordingly, for such policies do little to augment teachersʼ resources for change.

~改善の方向性を判断し、それに従って具体の指導を改善するという教師の力量を向上させることなしに、(教室における)指導法を改善しようとする(行政の)政策には、ほんのわずかしか期待できないだろう。なぜなら、そのような政策は、教師に必要な「変化(成長)のためのリソース」をほとんど増強しないからである~

出所:Cohen, D.K.(1990).A revolution in one classroom: The case of mrs. Oublier. Educational Evaluation and Policy Analysis, 12(3),311–329. https://doi.org/10.3102/01623737012003311

 

ここにある教師に必要な「変化(成長)のためのリソース」として、僕が考えるのは、「(学校の判断で自由に使える)カネ」「ヒト(教師の質と数)」「(外部からの批判や介入から自らを守るための)盾」「自律性(教師の判断で実践を行う自由)」「成長の機会」の5つです。

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