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大光相互銀行に続き不倒神話を揺るがした平和相互銀行は、大蔵省銀行局にとってかねて「頭痛の種」だった/「銀行不倒神話」の誕生と終焉④

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平和相互銀行本店
創業者一族の内紛が泥沼化した平和相互銀行本店(写真:東洋経済写真部)

1979年5月。新潟県の大光相互銀行を救済するため、大蔵省は業界団体や株主銀行を説得し、「二重、三重の安全網」を張り巡らせた。だが、これが公表されるや直ちに批判が噴き出す。

5月22日の参議院大蔵委員会で、社会党の和田静夫は「帳尻は大蔵省が世話してくれるということになりそうであります。一般の企業ならとうに倒産しているところでありますから、大蔵省としてはあらゆる金融機関は絶対につぶさないという基本方針をお持ちのように見えます」と支援策を皮肉り、追及した。「金融機関はつぶれない、信用不安が生ずるから大蔵省が保護するという過保護行政のもとで何が育まれてきたのか」。

一方、銀行局長の徳田博美は「過保護と言われるような行政はこれからはやらない」と言いつつも、信用不安を回避するための配慮は必要だと強く反論した(『参議院大蔵委員会議事録』)。

実は、大光相互の不良債権がもたらす損失は、当時の含み益を加えた自己資本を上回るとみられていた。つまり事実上の債務超過銀行だったのである。

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