「すごい」濫用は思考停止、言葉は"待って"いい 『言葉なんていらない?』古田徹也氏に聞く

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『言葉なんていらない?私と世界のあいだ』著者の古田徹也氏
[著者プロフィル]古田徹也(ふるた・てつや)/東京大学大学院人文社会系研究科准教授。1979年生まれ。主に西洋近現代の哲学・倫理学を研究。著書に『言葉の魂の哲学』(第41回サントリー学芸賞受賞)、『謝罪論』『このゲームにはゴールがない』『いつもの言葉を哲学する』『不道徳的倫理学講義』など(撮影:尾形文繁)
私たちの生活に言葉は欠かせない。しかし、言葉によるコミュニケーションは、不正確で不完全なものにも思える。
はたして言葉とは、私と私以外の人々をつないでくれる「媒介物(メディア)」なのか、それとも両者を隔てる「障壁(バリア)」なのか。そう問いかけるところから、本書は始まる。
言葉なんていらない?: 私と世界のあいだ (シリーズ「あいだで考える」)
『言葉なんていらない?: 私と世界のあいだ (シリーズ「あいだで考える」)』(古田徹也 著/創元社/1760円/192ページ)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。

──言葉の問題を、「発話」という行為に着目して問い直している点が印象的でした。

一般に、言葉は、本物に対する不完全な模造品というイメージで捉えられやすい。最近、三省堂の「今年の新語 2024」で「言語化」が大賞になったが、「言語化」という言い方にも、何か言い表すべき思考や感情がまずあって、それを言葉に置き換える、つまり「言葉というラベルを貼る」ようなイメージがある。しかし、それだけでは、言葉の果たす役割を歪めて捉えてしまいかねない。

言語化されたものは単純化されており、不正確で偏っている、というイメージに対して、まずは「言葉は発話するものであり、行為である」という点を確認する必要がある。誰かの肩をたたいたり、押したりする行為と同じように、発話は、人に具体的に働きかけ、影響を及ぼす行為だ。この視点を持たなければ、私たちに染み付いた言葉やその機能・役割について問い直すのは難しい。

──2章では、プラトンの書き言葉批判を取り上げながら、「記憶の外部化」や「言葉の独り歩き」について論じています。その現代性に驚かされました。

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