葛藤を通した成長が大切、「登校を促さない」で改善しない不登校の子への対処 スクールカウンセラー「社会を意識した対応を」
「登校するという結果のみを目標としない」が有効なケース
──今は、文科省も「登校するという結果のみを目標としない」ことを明言しています。
1992年に文部省(当時)学校不適応対策調査研究協力者会議が報告書を発表し、不登校は「どの子どもにもおこりうる」ものであり、「やみくもに登校刺激を与えるのではなく、待つことが大切」という支援方針を示しました。
当時は「学校には行くべき」「逃げちゃダメ」という風潮や価値観がありました。空気を読む才能が強い子どもは、この風潮や価値観を内在化していました。しかし、それが行きすぎると、自分の学校に対する不穏な感情さえ抑え込んでしまいます。
本来、不穏な感情を自覚し、誰かと共有し、理解を向けてもらえれば、たいていの場合は問題なく過ごすことができるものですが、空気を読んで抑え込むがゆえに、サポートが得られなくなってしまっていたわけですね。
こうした自分の気持ちを抑え込む子どもたちが、だいたい10歳前後になると自分の抑え込んでいた思いがいろんな形で噴出し(例えば体調不良や朝起きられないなど)、バランスを崩した結果として不登校になるパターンが多く見られました。
ここでは「抑え込んだ思い」を引き出すことが大切なので、「無理をしなくていいよ」と価値観を緩めることが支援の第一歩となります。安心できる環境を構築することで、子どもが抑え込んでいた思いに気づき、「行くのが苦しい」「行かなきゃいけない」という葛藤が引き出されます。
この葛藤を支えることで、多くの不登校児は精神的成長を遂げ、再登校するかはともかくとして、最終的には社会に入っていくことができる場合が多かったのです(だからこそ、この不登校の時期は「さなぎの時期」と称されていました)。
もちろん、今でもこういうケースはありますが、今は「嫌なら行かなくていい」という価値観が強くなっていますし、子どもたちも「学校に行かなきゃ」という意識が以前より薄くなっています。コロナ禍を経て、学校に行くことへの意味が揺さぶられたことも大きいでしょう。いずれにせよ、こうした時代や社会風潮の変化により、以前は効果的だった対応が、かつてほどの効果が得られないという事態が生じてきています。
最近の事例では、葛藤が生じにくく、それを経た成長・成熟が見えにくい子どもが増えてきました。こうしたケースでは「再登校を目標としない」ことが、本当に子どもの支援になっているのか疑問であることも多くなっています。
子どもの葛藤や揺らぎを大人が支えることが大切
──学校に「行かない」「いや行くべきだ」という葛藤が生じるケースは登校できなくても予後がよいということだと思いますが、再登校を目標にしないと将来的に社会参加が難しくなると思われるのは具体的にどのようなケースですか?
さまざまなパターンがありうるので、具体的な例を挙げながら話していきましょう。中学生の不登校気味の生徒が「体育に出たくない」と言っているとしましょう。親も教員も「それで学校に来れるなら」と体育に出ないことを了承しますね。ですが、この生徒が高校に進学すると、今の「体育に出ない」というスタンスを変えていかないと留年になってしまいます。
先ほどの「脱錯覚」でも触れたように、昔に比べて、現代の子どもたちは「耳が痛い現実」に直面することが少なくなっています。もちろん、現実を前にして傷ついたとしても、それを大切な誰かに支えられていくことで、子どもたちは成長する力があります。ですが、そういった機会が少ないまま成長し、急に「耳が痛い現実」に直面すると、そこから離れようとしてしまうのは無理もありません。
上記の事例の場合、そういった「耳が痛い現実」を伝えずに高校に進学することは、生徒からすると「寝耳に水」という感じでしょう。実際に、「中学校ではそれでも進級できたけど、高校では留年になることは知ってる?」と伝えると、「そんなことが自分に起きるんですか?」と驚いて、その場でスマホを取り出して調べるというケースもありました。
大切なのは、子どもに訪れるであろう「現実」を伝達し、そこで生じる揺れを支えていくことです。中学校で「高校で体育に出ないのは留年のリスクがある」と伝えることで、子どもはいろいろなことを考えるはずです。自分の「体育に出ない」というスタンスを変えることもあれば、自分のスタンスのままで進級できそうな高校を選び直すこともありうるでしょう。
このさなかに生じる心理的な揺れを支え、子どもたちが自分の現実を生きていけるようにすることが、われわれ大人の役割だと思います。大切なのは、子どもに現実を伝えないようにして「無風地帯」をつくるのではなく、現実を前にした葛藤や揺らぎがきちんと支えてもらえるという「安全地帯」をつくることなんです。