経済基盤が脆弱な家庭は「詰み」、相談急増する1~3月
福島県でスクールソーシャルワーカーとして働きながら、しんどさや生きづらさを感じる子どもと大人に寄り添う鴻巣麻里香氏。日頃からさまざまな相談に乗っているが、春先は1年のうちでもとくに注意すべき時期だと感じている。
「子どもの発達は本来、ゆるやかでつながりのある曲線で進んでいくものです。しかし4月になると『高校生になったんだから』とか『6年生ならできる』とか、進学や進級を境に、大人によって急激にスイッチされてしまう。新学期は多くの子どもが、何となくしんどいな、疲れるなと感じやすいシーズンなのです」
さらに鴻巣氏は、4月になる前の段階で、すでに困りごとが生じている家庭もあると続ける。
「1月から3月にかけて、とくに経済基盤が脆弱な家庭からの相談が急増します。進学などに関するイレギュラーな出費が多く、貯蓄額がそれに耐えられなければ即座に『詰み』となる。家計の面でヤングケアラーになる子どももいます」
制服代や教科書代、受験料から入学金、それまでなかった登校の交通費や昼食代など――。さらに最近の物価高が、その困窮に拍車をかける。「何か使える支援はないか」と聞く保護者や、「きょうだいの学費を手助けしなければならない」「自分の食費は自分で出せと親に言われた」などと言う子どもが、鴻巣氏のもとに数多くやってくる。
慣れない環境でただでさえストレスの多いところに、家庭の状況によっては、アルバイトや家族の世話がのしかかることも。子どもたちの自死や不登校は長期休暇明けに起こりやすいが、疲れ果てた結果がそこで表出しているのであり「リスクの種は、4月の時点ですでに蒔かれているのではないでしょうか」と鴻巣氏は語る。
では、周囲の大人はそんな子どもたちにどう言葉をかければいいのか。言いがちな「困ったことがあったら相談してね」という声かけには、あまり意味がないと言う。
「理不尽な大人との関わりでしんどさを感じている子どもに、大人を信じて悩みを打ち明けろと言っても難しいものです。それに困っているときって悩みで頭がいっぱいで、相談しようとかどう話そうとか考えることもできませんよね。困ってからではもう遅いというのが本当のところで、だから日頃からの声かけが重要なのです」
有効なのは「今日はどんなことがあったの?」とこまめに声をかけること。子ども本人がモヤモヤの理由がわかっていないこともある。「朝学校に着いたときはどうだった?」「給食の時間は?」などと具体的に聞くことで、本人も整理と言語化ができ「そういえば休み時間にこんなことが……」と気付くことがあるそうだ。
「大人の聞き方次第で、それはしんどさの増幅の機会にもなりかねません。『つらい』という言葉が出てきたときに『なんで?』『どうして?』と理由を問い詰めてしまうと、叱責として受け取られがち。子どもに『あ、怒られる』と思われたら、気持ちを引き出すことは難しくなるでしょう」
子どもへの声かけの注意点と「ずるい」に潜む大人のSOS
日頃の声かけを積み重ね、信頼関係を築くことが大切だと語る鴻巣氏。だがこれを教員が教室の全員に徹底することは不可能だ。より密なコミュニケーションが家庭でもなされるべきだが、そうしてもらえない子どもの家庭ほど、困りごとが生じるリスクが高い。
「公教育の場はすでに福祉の要素を含んでいて、そのポジションから引き返すことは子どもたちの利益になりません。学校は地域や家庭の問題を可視化する力がある、いわば児童福祉のポータルサイトのような役割を担っているわけですが、すべてに先生が対応することは到底できませんし、先生任せにしてはいけません。必要なのは、私たちのようなスクールソーシャルワーカーやカウンセラー、医療関係者など、さまざまなプロフェッショナルをどんどん入れて、学校に人を増やしていくこと。やっとできたこども家庭庁にも本領を発揮してもらって、先生の負担を手放していくことです」
福島に拠点を置く鴻巣氏は、「10年以上ずっと、何かしらの危機が子どもたちを襲い続けている」と言う。東日本大震災の癒えない傷、そこを見舞ったコロナ禍、長引く不況。余裕のなさが大人にも子どもにも苦しい空気を生んでおり、例えば「自己責任論」もそこから来たものだと考えている。
「家庭が裕福でないなら、飛び抜けて優秀ではない子どもは進学する必要がないという人も多くいますね。貧乏なら奨学金を借りればいいとか、お金がないのに進学したいならもっと学力を伸ばすべきだとか、それは経済的に厳しい家庭の子どもだけに課される不当な競争です。貧困と格差が常態化したこの世の中において、自己責任論はコミュニティー自滅への道を歩むものだということを理解してほしいと思います」
鴻巣氏は子どもがいつでも相談できるよう、「暇そうにすること」を心がけている。「やることがあっても暇そうにするのって難しいんですよ」と笑いながら、最近耳にする機会が増えた「ずるい」という言葉にも警鐘を鳴らす。
「合理的配慮は『ずるい』、借りた奨学金を返さないのは『ずるい』、学校の先生方からも、暇そうなほかの先生が『ずるい』――そんなふうに聞くことがとても増えた気がします。表れているのは、そう感じてしまう本人の余裕のなさ。周りの誰かをずるいと思うのは、そう感じる側のSOSだと言ってもいい。これは大人も子どもも同じことです」
公教育の場の「福祉」には、教員の権利も含まれている
ヘビーな相談が寄せられることも多い日々の中で、鴻巣氏は定期的にカウンセリングを受けるなど、自身のケアも大切にしている。忙しい教員たちにも、その視点で「自分を許してあげてほしい」と訴える。
「すでに学校は福祉の場となっているとお話ししましたが、公共の福祉には先生方の権利や幸せも含まれているのです。自分の時間を犠牲にして学校の子どもを1人救ったとしても、そこで自分の子どもに我慢をさせていたら、結果としてはプラマイゼロなんですよね。だから私は自分の娘と過ごす時間は減らさないと決めています。学校は子どもにも先生にも『全力頑張れ主義』を強いていますが、それで先生が倒れたり、子どもが学校に行けなくなったりするなら意味がない。そもそも子どもが困っていることの元をたどると、必ず大人の問題に行きあたるものなのです」
例えば家庭の経済状況による子どもの苦しさは、言うまでもなく保護者が抱える問題だ。学校での子どもの苦しさも、じっくり話を聞いてみると、教室全体のギスギスした雰囲気が見えてくることがあるそうだ。
「大人に対して行えば大問題になるようなことが、学校では今もあまりに当たり前に行われています。集団の中で叱責して恥をかかせることなどは、大人が思う以上にダメージが大きいものです。子どもは失敗して当たり前なのに、先生がそれを許さず、連帯責任を問うことも少なくありません。効率を重視したら仕方ないという考え方なのかもしれませんが、こんな環境に置かれた子どもは苦しくなるに決まっています」
この悪循環を断つために、文部科学省の発想転換も必要だと鴻巣氏は言う。学校はよくも悪くもトップダウンの傾向が強く、教員の意見だけで変わることは難しい。文科省の決定が一律で下りてこなければ、負担を減らすこともできないからだ。
「学校の先生が忙しいのは、上からの指示でやることがどんどん増えていくからです。教育の内容をアップデートするのはいいのですが、文科省は何かを増やしたら何かをやめるという判断もしてほしいですね。多すぎるイベントも全部やめたっていいと思う。先生に余裕ができれば、子どもが感じるしんどさも変わっていくはずです」
子どものしんどさを生むのは大人であり、苦しい子どもや不幸な子どもが多い社会は、苦しく不幸な未来に向かう。大切なのは大人が変わり、今の社会を変えることだと強調した。
(文:鈴木絢子、注記のない写真:Graphs / PIXTA)