「脱錯覚」が不十分なままの子が増えている
──不登校の児童生徒数が過去最多を更新し続けています。
子どもの数は減っているのに不登校が増えているという状況ですから、よく言う「登校を促さない」というアプローチによって改善する事例ばかりではないことは間違いありません。かつて不登校は小学校高学年から増加傾向にありましたが、現在は小学校低学年から学校に適応しにくい子どもも増えています。社会や子育ての価値観の変化により、学校という枠組みになじみにくい子どもが増えていると感じます。
小さな子どもは「外の世界を変えられる」「自分には力がある」というやや万能的な有力感を持っており、これを心理学では「錯覚」と呼びます。しかし、イヤイヤ期付近の親をはじめとした外界とのやり取りを通して、外の世界は必ずしも思いどおりになるわけではないこと、自分自身も完璧ではないことを理解していきます。これを「脱錯覚」と呼びますが、近年は脱錯覚が不十分なまま就学期を迎えたお子さんが増えていると感じています。
──なぜ、脱錯覚ができていない子どもが増えているのでしょうか?
本来、親をはじめとした外の世界と「思いどおりにならない」「けど大切にされる」というごちゃごちゃとしたやり取りを通して、「自分も外界も思いどおりではない」という現実を受け入れていきます。ですが、現代は子どもを不快にさせないよう要求に応える関わりが多くなっています。
スマホなどの科学技術の発展もあって、子どもの要求に応えやすい世の中になっているということもあります(例えば、クリスマスプレゼントを選ぶときにスマホを見せ、実物を確認して購入できる。昔はこれができず、子どもの言うことをよく聞いてプレゼントを買ったものの間違えたなど)。これは一見よいことのように思えるかもしれませんが、昔だったら普通に生じていた「思いどおりにならない」という体験が減じることになっているわけです。
また、子育ての中で、親が自分の価値観を積極的に伝達しなくなりました。これは「押し付けはよくない」という風潮もあってのことだと思いますが、実は親の価値観を伝えることによって、子どもは「どんな姿が理想的なのか」といったイメージを持つことができました。
この機能を超自我と呼ぶのですが、今はこの超自我が日本の歴史上で最も弱い時代なのではないかと感じています。その一方で、SNSなどネットの情報に触れ続けることで、現実から離れた「キラキラした姿」を自己イメージ像として設定しやすくなりました。
親から「押し付けられた理想像」は変えることが容易いのですが、こういう「自分でつかみ取った理想像」はなかなか手放せないのが厄介な点です。結果として、「現実からかけ離れた理想像」を下方修正できないまま成長している子どもたちを多く目にするようになりました。
──「こうあるべき」を言わない親御さんが増えたのは、なぜでしょうか。
「子どもを不快にさせない」「押し付けはよくない」という風潮が大きいと感じています。親の価値観を伝達すると、当然、子どもとぶつかることが増えます。子どもが成熟するにあたり、「親子のぶつかり」はとても大切なものですが、このぶつかり合いを忌避する傾向が現代にはあると思います。
それに「親の考えを押し付けられて苦しかったから、自分は子どもに押し付けたくない」という親御さんもいますね。もちろん、「親の言う通りじゃないと愛さない」という価値観の押し付けはよくありませんが、子どもが「親の価値観に反発しても大丈夫」という関係性の中で、親が自らの価値観を伝達することで「子どもを成熟させていこう」とするのはとても大切です。
この「親子のぶつかり合い」をイヤイヤ期くらいから続けていることは、親御さんにとっても「子どもとぶつかる練習」になります。それを経ずに、子どもが成長し、身体が大きくなり、口も達者になってから「ぶつかる」のは大変難しいものです。
「登校するという結果のみを目標としない」が有効なケース
──今は、文科省も「登校するという結果のみを目標としない」ことを明言しています。
1992年に文部省(当時)学校不適応対策調査研究協力者会議が報告書を発表し、不登校は「どの子どもにもおこりうる」ものであり、「やみくもに登校刺激を与えるのではなく、待つことが大切」という支援方針を示しました。
当時は「学校には行くべき」「逃げちゃダメ」という風潮や価値観がありました。空気を読む才能が強い子どもは、この風潮や価値観を内在化していました。しかし、それが行きすぎると、自分の学校に対する不穏な感情さえ抑え込んでしまいます。
本来、不穏な感情を自覚し、誰かと共有し、理解を向けてもらえれば、たいていの場合は問題なく過ごすことができるものですが、空気を読んで抑え込むがゆえに、サポートが得られなくなってしまっていたわけですね。
こうした自分の気持ちを抑え込む子どもたちが、だいたい10歳前後になると自分の抑え込んでいた思いがいろんな形で噴出し(例えば体調不良や朝起きられないなど)、バランスを崩した結果として不登校になるパターンが多く見られました。
ここでは「抑え込んだ思い」を引き出すことが大切なので、「無理をしなくていいよ」と価値観を緩めることが支援の第一歩となります。安心できる環境を構築することで、子どもが抑え込んでいた思いに気づき、「行くのが苦しい」「行かなきゃいけない」という葛藤が引き出されます。
この葛藤を支えることで、多くの不登校児は精神的成長を遂げ、再登校するかはともかくとして、最終的には社会に入っていくことができる場合が多かったのです(だからこそ、この不登校の時期は「さなぎの時期」と称されていました)。
もちろん、今でもこういうケースはありますが、今は「嫌なら行かなくていい」という価値観が強くなっていますし、子どもたちも「学校に行かなきゃ」という意識が以前より薄くなっています。コロナ禍を経て、学校に行くことへの意味が揺さぶられたことも大きいでしょう。いずれにせよ、こうした時代や社会風潮の変化により、以前は効果的だった対応が、かつてほどの効果が得られないという事態が生じてきています。
最近の事例では、葛藤が生じにくく、それを経た成長・成熟が見えにくい子どもが増えてきました。こうしたケースでは「再登校を目標としない」ことが、本当に子どもの支援になっているのか疑問であることも多くなっています。
子どもの葛藤や揺らぎを大人が支えることが大切
──学校に「行かない」「いや行くべきだ」という葛藤が生じるケースは登校できなくても予後がよいということだと思いますが、再登校を目標にしないと将来的に社会参加が難しくなると思われるのは具体的にどのようなケースですか?
さまざまなパターンがありうるので、具体的な例を挙げながら話していきましょう。中学生の不登校気味の生徒が「体育に出たくない」と言っているとしましょう。親も教員も「それで学校に来れるなら」と体育に出ないことを了承しますね。ですが、この生徒が高校に進学すると、今の「体育に出ない」というスタンスを変えていかないと留年になってしまいます。
先ほどの「脱錯覚」でも触れたように、昔に比べて、現代の子どもたちは「耳が痛い現実」に直面することが少なくなっています。もちろん、現実を前にして傷ついたとしても、それを大切な誰かに支えられていくことで、子どもたちは成長する力があります。ですが、そういった機会が少ないまま成長し、急に「耳が痛い現実」に直面すると、そこから離れようとしてしまうのは無理もありません。
上記の事例の場合、そういった「耳が痛い現実」を伝えずに高校に進学することは、生徒からすると「寝耳に水」という感じでしょう。実際に、「中学校ではそれでも進級できたけど、高校では留年になることは知ってる?」と伝えると、「そんなことが自分に起きるんですか?」と驚いて、その場でスマホを取り出して調べるというケースもありました。
大切なのは、子どもに訪れるであろう「現実」を伝達し、そこで生じる揺れを支えていくことです。中学校で「高校で体育に出ないのは留年のリスクがある」と伝えることで、子どもはいろいろなことを考えるはずです。自分の「体育に出ない」というスタンスを変えることもあれば、自分のスタンスのままで進級できそうな高校を選び直すこともありうるでしょう。
このさなかに生じる心理的な揺れを支え、子どもたちが自分の現実を生きていけるようにすることが、われわれ大人の役割だと思います。大切なのは、子どもに現実を伝えないようにして「無風地帯」をつくるのではなく、現実を前にした葛藤や揺らぎがきちんと支えてもらえるという「安全地帯」をつくることなんです。
ただ、昔に比べて、子どもたちに「現実」を伝えづらくなりました。例えば、学力以上の学校への進学を希望しているお子さんがいても、教員が「点数が足りていない現実」を伝えることで、「先生がダメだと言ったから希望する学校に行けなかった」と他責的になったり、ショックを受けている子どもを前にした親が「もっと配慮してくれ」と言ってくるという事例もあります。
そうなると「学校が現実を伝える」ということがしづらくなるわけです。通信制などの選択肢が増えたことは基本的によいことですが、子どもが「今のスタンスを変えなくても通える」ということにもなりやすいので、どうしても「現実に直面して、悩みながら成長する」という機会は少なくなってしまいます。この辺は難しいところです。
──「現実」を伝えたほうがよい事例とそうでない事例は、どう見極めればよいのでしょうか?
これは親御さんや教員だけではなく、カウンセラーのような専門家が入り、きちんとプロとしての見立てを行って見極めていくことだと思います。子どもに「現実を伝え、支えていく」ことが必要な場合は、親御さんがこの方針に共感できるかは大切なことです。年齢にもよりますが、子どもを支える役割を担うのは親御さんになることが多いので、協力関係の中で方針も共有して同意を得ていくことがマナーですね。
「みんなの事情を考慮した枠組み」に協力するスタンスが重要
──子どもが現実と折り合いをつけながら成長し、将来的に社会参加できるようにするには、どんな関わり方が必要なのでしょうか。
昔は「子どもは大人に合わせなさい」でしたが、今は「子どもの意向を尊重する」ご家庭も多いかもしれません。でも、これは「言うことを聞く相手」が変わっただけで、本質的には何も変わっていませんし、誰かが「不本意な我慢」を強いられる考え方でもあります。大切なのはそのどちらでもなく、「子どもや大人、みんなの事情を考慮した枠組み」にみんなが協力するというスタンスです。
例えば、うちの子どもは児童クラブで宿題をしてきますが、たまに忘れることがあります。でも宿題をしてきてくれないと、私たちが時間ギリギリの中で食事を作ったり、お風呂を入れたりしつつ、何とか適切な時間に寝かせようとしているのに、すべてが後ろ倒しになってしまいます。
だから、そういうときには「みんなで暮らしている家なんだから、お互いに協力しないと困るよ」と伝えます。もちろん、ちゃんとやってきてくれていたら「協力してくれて助かる」と感謝を伝えるのは当然です。こういう関わりを通して、子どもが「家族に属することで満足感を得る」ということがしやすくなります。
これは家庭の例ですが、学校でも同じで、みんなで「めあて」を決めるのは、それに向けてみんなが協力し合うためです。また、教員と児童生徒が話し合って校則を決めるのも、「みんなの事情を考慮した枠組み」をつくって、そこにみんなが協力していくことが大切なのです。
多くの人が思っている以上に「自分が協力することで、この集団は助かっている」という感覚は大きな充足感になります。また、この感覚は「集団から力をもらっている」という形になります。
「自分は○○ができる」といった自分の功績だけで自分を支えることも大切ですが、これだけだと限界があります。集団に所属することによって得られる充足感は、現代の子どもたちが得にくくなっているものであると思いますが、これの有無によって社会参加のしやすさは大きく変わってくるのではないでしょうか。
「思いどおりにならない」ことが苦しい子どもへの対応
──「現実」をきちんと伝えていくという関わりは、いつ頃からやっておくべきですか?
だいたいイヤイヤ期になると、子どもはやや万能的な有力感をもって外界と関わろうとします。この時点から、少しずつ「他人(親)は、すべてを思いどおりにはしてくれない——けど支えてくれている」「自分は万能ではない——そんな自分でも大切にされる」という体験が積めるよう、大人は現実を変えずに子どもを支えるという関わりにシフトしていくものです。
ですが、最近は「現実のほうを変える」というアプローチをしている親御さんが増えています。この「子どもの快不快に応じて外界を変える」という対応を続けていると、小学校という枠組みのある場所に入ろうとしたときに「思いどおりにならない」という不満・不快を感じやすくなってしまいます。
──「思いどおりにならない」という思いが不適応を招いている事例に対しては、具体的にどんなことから始めればいいのでしょうか?
先ほどの「子どもや大人、みんなの事情を考慮した枠組み」に協力するという視点が、ここでも大切になってきます。子ども中心の家族ではなく、家族を成り立たせるためにみんなが協力し合うというイメージです。
例えば、外食に行くときに、いつも子どもが行きたいお店に行っていたのを、親御さんが行きたいお店にも行くようにするんです。子どもは不満を示すかもしれませんが「家族なんだから、お互いの行きたいところに行き合うようにしよう」と伝え、「思いどおりにならない」という小さな経験を積んでいくことが大切なわけです。もちろん、協力に感謝することは忘れてはいけません。
また、「子どもや大人、みんなの事情を考慮した枠組み」では、○時に寝たいから、ゲームは△時までに終えよう、ということも出てくるはずです。もちろん、子どもはそこで不満を示すかもしれませんが、そこでのすったもんだを繰り返しながら、子どもが「自分以外の枠組みで生きる」ことを経験していくわけです。
当たり前のことですが、子どもに「ゲームは△時まで」と伝えているのに、親御さんがスマホゲームをその時間を超えてやっているのはいただけません。子どもに「家族の枠組みで生活する」ことへの協力を求めるのであれば、親御さんにもその枠組みに「協力する姿勢」が求められます。これが「親の背中を見て育つ」ということです。
このように「自分以外の枠組みで生活する」ということ、そこで生じる不満を親子の関係性の中で収めていくことを通して、子どもたちは「自分以外の枠組み」に入っていくことがしやすくなっていきます。
これができると、学校という枠組みに入ることへの抵抗感も薄くなるので、「思いどおりにならないから行かない」という形での不適応は減ることが多いです。
もちろん、内心として「自分の思いどおりにしたい」というマインドがすぐに変化するわけではないので、その後も子どもの成熟を促すような関わりを維持していくことは欠かせません。
──学校や教員はどのような対応をするといいのでしょうか。
「現実」の経験が薄い子どもの場合、自分の現実に出合ったときに混乱することがあります。自分が間違えてしまった現実を受け入れられず、泣いたり不機嫌になる子どもが増えています。
そういうときに「間違えることはよいこと」「あなたの苦手なところを見せてもらえるのは、とてもうれしい」などのように、間違えることや失敗することの大切さを繰り返し伝えてもらえるとよいでしょう。また、先生が自分の失敗談を伝えることで、子どもたちが失敗を認め、失敗を話しやすい関係が生じやすくなります。是非、武勇伝ではなく失敗談を子どもたちに伝えてもらえると幸いです。
また、どんな子どもであっても、ちゃんと「自分はクラスの一員だ」と実感できるような関わりをしてもらえればと思います。どうしても手のかかる子どもに目が行きがちですが、大人しく授業を受けている子どもに「あなたがそうやって授業を受けてくれていることで、先生はとても助かっている」「クラスが成り立つのに、あなたの存在はとても大切だ」といった声かけが大切です(もちろん、手のかかる子どもにも)。
当然ですが、学校に来られていない子どもであっても、クラスの一員として教師が見なしているということが伝わる努力をしていくことが求められますね。
(文:吉田渓、注記のない写真:MAPS / PIXTA)