「多様性」が太刀打ちできない、厳然たる「普通という呪縛」
発達障害の子どもと接するとき、保護者や教員など、周囲の大人はどんなマインドでいればいいのだろうか。岡嶋裕史氏は、彼らと定型発達との間に生じるギャップについて、自らの専門分野になぞらえて次のように説明する。
知的障害を伴わない発達障害でも、多くの場合、他者とのコミュニケーションに齟齬が出る。これはコンピューターでいえば、ディスプレイやキーボードといった「入出力装置」に問題がある状態なのだ――。そう言われてみれば、彼らが何もわかっていないわけではないことも、本当の能力に対して大きな生きづらさを感じることも、なんとなく理解することができるのではないだろうか。
「入力、つまりコミュニケーションの受け取り方がちぐはぐなので、発達障害の人は他者の表情などを読むことが苦手です。人間関係のエラーは、どんなときになぜ発生するのかがわかりにくい。それに比べれば、コンピューターのエラーは、必ず理屈で突き止めることができます。視覚優位であることや、高い記憶力などといった特性も活かせるので、やはりプログラミングが得意なケースは多いです。そういった意味で、近年の教育の方針は、発達障害の子どもたちにもメリットがあると言えるでしょう」
しかしここで岡嶋氏は、対処や視点を一般化することの危険性を強調する。
「例えばプログラミングについても、すべての発達障害の人が、必ずしもそれを得意とするわけではありません。僕の子どもも自閉スペクトラム症ですが、『spectrum(連続体)』といわれるとおり、一人ひとりの特性は千差万別です。『こういう子どもにはこうすればいい』といった決めつけや、先回りして過剰な特別扱いをすることは、子どもを傷つけることにもなるので避けるべきです」
だが、日本の教育現場では、これがなかなか難しい。効率重視の一斉授業はいまだ続いており、社会も右にならえの傾向が非常に強い。「普通という呪縛」が、あまりにも強く存在していると同氏は語る。
「僕自身も、保護者としてさまざまな人と関わってきたし、今は相談を受けることもあります。『普通』というのは、親御さんからも医療関係者からも教育関係者からも、本当によく出てくる言葉です。『多様性』もよく聞かれるようになりましたが、みんなが目指したい『普通』は、今も厳然と存在していますよね。イベントで『普通』の子と同じように振る舞えないと判断されて、僕の子どもも挑戦のチャンスを奪われてしまったことがありました。スムーズな進行のためには、それは仕方がないことなのでしょう。でも、全体最適のために一つの挑戦のチャンスが失われることは自覚しておきたいです」
大学進学が最適解か、キャリアパスはどうするか…課題は山積
「普通」の呪縛は強いものの、発達障害の子どもに向けられるまなざしは徐々に変化し、社会は明るい方向に向かっているとも感じている岡嶋氏。だが、その結果として彼らの大学進学率が上がっていることには、複雑な思いを抱いている。
「大学教員として、発達障害の入学者は確実に増えていると感じています。ただ、これが本当に最適解なのかどうかは、じっくり考えてみる余地があるのでは」
大学入試を突破できるだけの学力があるなら、勉強ができることに自信を持っている子どももいるだろう。しかしその自信が、大学生活によって失われてしまう恐れすらある。
「現在の大学のカリキュラムや環境は、発達障害の人に向いているとはいえません。大人数クラスに放り込まれ、先生のサポートもなく、彼らが苦手とするコミュニケーション能力が非常に強く求められる。学歴自体を誇りに思えるタイプならいいのですが、入学後に孤立して、塞ぎ込んでしまう学生も実際に見てきました」
近年は、文部科学省も「子どもの自己決定」の重要さを説いている。だが、とくに発達障害の子どもに対しては、そのバランスを考えて接する必要があるようだ。
「理念としてはすばらしいものですが、子ども自身で自分が楽になる決定を下せるとは限りません。暗喩や相手の感情も読み取れない相手を誘導することは簡単です。自己決定を隠れ蓑にして、むしろ学校や大人が楽になること、得になることを選ばせていないでしょうか。行けるのであれば大学に行かせたいという親の気持ちもとてもよくわかります。でもそれが、『普通』を求める親のエゴであってはいけない。また、大学はどこも台所事情が厳しいので、学力が水準に達していれば、積極的に学生を受け入れます。学校で働く者の一員として、これは自分でも肝に銘じておきたいことです」
もう一つ、岡嶋氏が課題を感じていることがある。それは発達障害の子どもたちの行く末、キャリアパスの選択肢のなさだ。大学の出口となる就職活動は、学生生活以上にコミュニケーション能力が重視され、発達障害の学生にとっては非常に厳しいものになる。大卒資格があることで、障害者雇用の対象外になってしまうケースもあると言う。
また、特別支援学級で学ぶ場合、教科学習はどうしても国語や算数に偏りがちだ。しかし実際には、理科や社会科が大好きな子どもも多くいる。学びを楽しむ力があるにもかかわらず、高度な教育を受けるための選択肢はやはり少ない。
岡嶋氏は、近年拡充が進む「就業技術科」や「職能開発科」のような学びのあり方に期待を寄せている。これは飲食店や清掃業など、実際の業務で役立つスキルを身に付けることができるもので、現在は2科合わせて、東京都内の12の特別支援学校に設置されている。
「発達障害の子どもは年齢に対して幼いことも多いので、中学校卒業後に、じっくり社会に出る訓練ができる機会があるのはうれしい。とてもいい仕組みで、高校の3年間だけではもったいないほどだと思います。あと2年ぐらいプラスして、歯ごたえのある学習なども経験できるようになったらもっといいですね」
発達障害の子どもは「教室の苦しさを知らせるカナリア」
小学校から大学まで、教育の場を内側からも外側からも見つめてきた岡嶋氏は、その閉鎖性の強さに疑問を抱いている。外部からの手助けや変革を許さない風潮があり、新しい試みにも消極的だ。だがコロナ禍で、その牙城が否応なしに崩された部分がある。
「リモート授業などが導入されてやりやすくなったという声は、発達に特性を持つ多くの子どもから聞きました。オンデマンド型なら自分のペースで繰り返し見ることができ、聞き逃すこともなくなる。また、生身で向き合うより、アバターやテキストによるコミュニケーションのほうが気軽だという人は多いでしょう。定型発達の人にとってもメリットがあったはずです」
デジタルで救われた人がいる一方で、インターネットやバーチャルの世界でも、多様性は確保されていない。SNSは岡嶋氏の専門分野でもあるが、自分と違う他者を認めることは、「心理コストが高すぎる」のだと同氏は言う。異なる正しさがぶつかり合い、目立った人が炎上して「普通」からはじき出されるところを、私たちは日常的に目にするようになった。多数派に交じる安心感はこうしたところからも生まれ、強化されるのかもしれない。
「僕は今の日本は、発達障害であるか否かにかかわらず、等しく人があまり尊重されていないと思います。そして、問題のしわよせはまず弱いところに表れます。学校にフォーカスしたとき、発達障害の子どもたちは、教室の息苦しさを知らせるカナリアのような存在だと言えるでしょう」
強すぎるマジョリティー志向と、レベルが上がり続ける「普通」との間で苦しんでいるのは、定型発達の子どもも、多くの大人も同じではないだろうか。
(文:鈴木絢子、注記のない写真:Graphs / PIXTA)