愛嬌ある「団子鼻」が目印、元祖新幹線0系の記憶 試運転から国鉄時代の全盛期、晩年の姿まで
ビュフェの速度計をめぐっては、こんなエピソードも耳にした。なかなか最高速度に達しない速度計の表示に不満の乗客たちが、車掌に「いつ210km出るんだ!」と詰め寄り、車掌が運転士に電話で「最高速度を出せと言われている」と伝えると、すぐ最高速度に達してビュフェ内に拍手が沸いた――という話を当時の運転士から聞いたことがある。
開業当初、東京―新大阪間の所要時間は「ひかり」が4時間、「こだま」は5時間で、最高時速は200kmで運転していた。開業翌年の1965年には時速210km運転を開始し、同年11月1日のダイヤ改正からは「ひかり」が3時間10分、「こだま」が4時間で走るようになった。
世界一速い鉄道「SHINKANSEN」の象徴である0系は、海外では「Bullet Train(弾丸列車)」として、とくにヨーロッパやアメリカでは羨望の的の列車であった。鉄道先進国でありながら高速列車の実用化に出遅れたフランスでは「シンカンセンに追いつけ追い越せ」とばかりにTGVの開発を始めた。0系、そして新幹線は世界の鉄道に大きな影響を与えた。
食堂車の「富士山問題」
0系に食堂車が登場したのは、1975年3月の山陽新幹線博多開業を半年後に控えた1974年9月のことだった。東京―博多間の乗車時間が6時間を超えるため、ビュフェだけでなく本格的な食事を提供する車両が必要と考えられたためだ。
食堂車は「ひかり」用の16両編成の8号車に連結され、列車内を移動する客がテーブルの間を通り抜けることがないよう、通路を山側(東京から博多に向かって右側)に設けて食堂スペースを仕切った構造とした。
営業開始時、国鉄は「レストラン210km/h」と銘打ってPRした。だが、当初は通路との仕切り壁に窓がなかったため「富士山が見えない」との不満が国鉄に寄せられた。このため1979年10月から通路に窓を設ける改良が行われ、富士山を見ながら食事が楽しめるようになった。食事は帝国ホテル、都ホテルといった一流ホテルをはじめとする業者が提供して味を競った。
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