伊藤穰一、Web3「学校の外でいくらでも学べる」時代の学校と先生の役割 日本の教育は安定的でフェアだが多様性がない
どんな子も、その子が夢中になることを大人は応援すればいい。そこから育てていくべきだと私は考えています。日本の教育は大量生産型の考えからまだ抜け出していませんが、クリエーティブなWeb3の世界では、誰かが上手にやっていることをする必要はなく、むしろみんなができないことをやることが大事になってきます。
そこではパッションを見つけて育てることが重要です。だから先生は、子ども側の立場に立って一緒に興味を持ってあげたり、背中を押すようなメンターであるべきだと考えています。メンターはネットで探すこともできますが、それが学校の中でできればよりいいですね。
今、学校の先生は業務が多いばかりでなく、1クラス30人超で一人ひとりの子どもとの関係性をつくりにくい。先生と子どもの比率を変えたり、学びや試験をデジタル化するなどして、一緒にプロジェクトをやったり、遊びの部分を活性化できるといい。困ったときに助けてあげられる子どもの味方のようなポジションになるほうが、先生にとっても本当はいいと思うんですよね。

日本はあまりにもノーマルに合わせようとしてきた
――今の日本の子どもたちの学びについては、どう見ていますか。
僕は本来、大人になっても学び続けるという、やる気が大事だと思っています。大人になっても学び続けなければ、今の世の中を生き抜いていくことはできません。いわば、内在的な動機と興味とパッションを見つけられるかどうかが人生の勝負になるわけです。
幼い時に子どもが興味のあることをやろうとしても、もし大人がダメだと言ってしまえば、それっきりやらなくなってしまいます。そこで“お利口さん”になってしまえば、言われたことをきちっと処理するだけの人間になってしまう。あるいは、そこで落ちこぼれてしまえば、引きこもりになってしまうかもしれません。
義務教育にピッタリはまる子もいれば、そうでない子もいる。日本はこれまであまりにもノーマルに合わせようとしてきました。しかし、ノーマルは理想であって、本当にノーマルな人などほとんどいないはずです。今後、子どもたちの興味や関心をもっと大人が受け入れていけば、日本はもっと元気になれると思います。
――GIGAスクール構想についてはどう評価されていますか。
1人に1台の端末を配布しネットワークにつなげることは、非常に重要なステップの1つだと考えています。ただ、そこからどのように活用していくのか。今後Web3の時代が到来する中で、ネットワーク型の教育に移行すべきだと思うのですが、どうしても「これまでの教室での授業」の文脈でデジタルをやってしまっているように見えます。
先生の時間がない、やりたいけれどできないということもあると思いますが、親の期待もありますよね。結局、会社が求める人間を大学が、大学が求める人間を高校がつくっていて、そうした学歴を持っている人を会社が雇うというシステムになっている。今、社会でどういう人たちが評価されているかにつながっていて、最終的に行き先のない学び方をなかなか親は認めません。
そういう意味では、人の評価の基準を根本的に見直して、考え方を変えるべきだと思います。企業においても働き方の評価を見直す動きがありますが、企業のあり方が大学や高校のあり方につながっている。プロジェクトで評価されるとか、大学を出なくても評価されるようないろいろなプロセスができるといいと考えています。
――確かに、よい大学から一流企業へという考え方は依然として根強いですよね。
あるシリコンバレーの一流企業には、学位と仕事の能力についてあまり関係性がないというデータがあるのですが、採用で学位以外の評価の仕方がわからないと議論になったことがあります。最近はオンラインコースで学んだ学生も雇用する方向にだんだんとシフトしてきていますが、ほかにも新しい評価基準があってもいいと思います。
例えば、シリコンバレーの企業では自閉症の人たちが、たとえコミュニケーションが苦手でも評価しますし、彼らが活性化されるような環境もつくれるところに強みがあります。MITも同様で、それは文化ですよね。
日本では、空気が読めない人は会社の中で出世できず、有名大学卒の人たちが物事を決めていくという文化があります。それが教育のあり方や評価システムにつながっていて、社会の問題だと思います。しかし、日本でも20代はだんだん違う方向にシフトしているように見えます。企業や大学、何のために就職するのかなどに対するステータスの感じ方が違ってきている。そうした20代が将来リーダーになるようになれば、日本の文化も変わっていくと考えています。